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2020年 06月 01日
子どもの頃 グラバー邸によく行った これはその初めで 生まれて4ヶ月の子どもに もちろん記憶はない 笑う母をまん中に 三聖母子像のよう だが違う ここにはもう一人の男が写っている カメラを構えて笑っている 父の姿がいつも見える 二十八の母は 二十九の父と 笑いながら話をしている それを聞きながら ぼくはお兄ちゃん と姿勢を正す兄 だが ようやく首のすわり始めた子どもは ぼんやりカメラを見つめながら せかいをにんしきし始める ホラホラ おとうさまですよ 見てごらん 耳元でささやく声が いつも記憶の向こうから聞こえる 虫の音が草むらをかすかに揺らし 風は静かに流れていった それは原爆が落とされて9年のちの夏 ささやかに訪れた やすらかな一日 神が祝福してくれた 永遠の一瞬(とわのひととき) かずま #
by odysseyofiska
| 2020-06-01 17:02
2020年 05月 02日
物心のつく頃から私はいつも両親の愛を感じてきた。 だが、2人の愛情表現は違っていた。 Fはいつも温かく見守りながら、だが決して手助けをせず、子どもがなんとか自分でやり遂げるのを見届けてから「えらいね〜」と言って頭を髪の毛がくしゃくしゃになるまで撫でてくれた。 だが、Mはその我慢ができず、ブツブツ文句を言いながら手助けをした。文句を言う振りをしながら子どもと一緒に何かをするのは喜びでもあったろうと今は気づくが、自我が目覚め始めた当時の子どもには、それは少し重たく、嫌なものだった。 終戦直後の何もない時代に結婚し、スタートした両親にとって、子どもが自分の力で早く生きていけるようにするのは必然であったろうし、とりわけ台湾からの引揚者で苦労したMにとっては、それは最重要課題だったろう。 Mは4つ半年上の私の兄の教育に熱心だったが、外で遊ぶのが大好きな兄は、それを上手にはぐらかしながらのびのび育ったので、お鉢はいつも私に回ってきた。 だが、おかげで私は絵や音楽が好きになった。 兄が中1、私が小2になる頃、一家は長崎から東京に転勤した。 M重工の目黒の小さな社宅で10年近く暮らした後、世田谷の一軒家に移った。それはMにとって念願の一軒家だった。 やがて、兄と私は、大学、大学院、就職、結婚と歩み、家を出た。そして昔からのMの夢だったFと2人だけの旅行を楽しみ始めた頃、Fが交通事故で左脳をやられ、高次脳機能障害になった。 私は離婚し、Mと共にFの介護を始めた。兄夫婦も清水から東京によく来てくれた。 そして14年後にFが逝って半年も経たない頃、(「F、命」で来たので、その反動が出たのだろう)Mに変調が起き、アルツハイマーが始まった。 4年ほど家で看て、その後Fと同じ老人保健施設、特養に入所した。それは、まだ頭が正常だった頃のMの希望だった。 そしてFが逝ってから12年の時が過ぎた・・・・・ 私には昔から不思議に思うことがある。 FとMは青春の頃に太平洋戦争を迎え、大変な時を過ごす。 Fは繰上げ卒業で学徒出陣し、軍隊も経験する。終戦直後も病院生活を経験し、大変だったことを本人から聞いて知っている。だが、不思議なことに、精神に曲がった所がなく、理想主義者でロマンチストだ。 Mには明らかに曲がった跡がある。そして現実主義者で、涙もろく、愛情が濃い。 この差はどうして生まれたのだろう。特にMの場合は---- それが知りたくて、3年程前に台南に初めて行った。 Mは熊本で生まれた後、陸軍の軍人で台南に駐屯していた父の元へ母と戻り、そこで終戦まで過ごす。住んでいた陸軍官舎群は現存し、当時の面影を残していた。また、母校の「台南第一高等女学校」も「国立台南女子高級中学」として美しい姿を残していた。陸軍本部跡や、現存する建物を見ていくうちに、Mの華やかなりし青春時代を思い描くことができた。 それが敗戦で引揚者となり、暗転する。金銭を持たずに着の身着のまま熊本の健軍の引揚者寮に戻り、父の病気で奈落の底へ突き落とされる。(多分、この時の傷跡がMの性格に影響している) だが、Mは一家を支えるべく働きに出て、そこでFと出会い、 初めて光を見出した・・・・・ 紫陽花が好きだった。 もうじき誕生日が来て、紫陽花が咲き誇ろうとする頃、Mは天国に逝った。 今頃、大好きなFや父や母と再会し、 涙を流しながら喜んでいることだろう。 かずま #
by odysseyofiska
| 2020-05-02 20:14
2020年 04月 14日
私の生業としている建築の設計でもここ数ヶ月は異常で、打合せや契約の延期、さらにはプロジェクト自体が消えるなど、未だ経験したことのないことが起こっている。 これは神様が少し休めと言ってるんだなと思い、(首相の宣言とは関係なく)先週後半から休んで、家でゆっくり次の準備をしている。(テレワークなどと洒落た形で生半可に設計の仕事をする気はしない。本当の設計は七転八倒のもっと泥臭い作業で、ディスカッションやエスキス、模型の積み重ね等から生まれる) 普段から私は休日でもあまり家でゴロンとしている人間ではなく、母親の入所している施設に行って昼ご飯を食べさせてから美術館に行ったり、図書館に行ったりするのが常だ。だが、特養は一月半前から面会禁止で、美術館や図書館も全部休館、だから家にいるしかない。 自然、本を読む時間が増える。(それ自体は嫌いではないので良いのだが、)本を読みながら知らない言葉や事柄をネットを辞書がわりに調べる癖があるので、その分通信料は増える。(私は一人者で、家は寝に帰る所なので、固定電話やWi-Fi環境はない。)ゲームや映像を見たりしないので普段は一月5〜6GB程度だが、今月は既にそれを越えている。 また、本を長く同じ姿勢で読んでいると、ラグビーで痛めた脊柱管狭窄症がぶり返すので、その度に銭湯に行くことになる。(ウチから歩いて5分程の所にスパと銭湯があり、どちらも黒湯温泉で愛用しているが、スパは宣言以来休館中なので、選択肢は一つだ) ここは設備が充実し、駐車場も大きいので、多くの人が(区外からも)やって来るが、昨年くらいからその数が減り、少し心配している。(私は落語やJazzと同じくらい銭湯が好きなので、リュックの中にはいつも替えの下着とタオルが入っている) この銭湯で一番好きなのは、運営している人達が皆家族的で温かいことだ。 それは皆を取りまとめている高齢のご婦人の店主から発せられるオーラのようなもので、この店主と別れ際に交わす「おやすみなさい」の言葉で、さらに温かい気持ちになる。 この町に住み始めてから、(途中、結婚して別の場所に住んだこともあるが、)随分長い時間が過ぎた。 初めて来た当時は本屋が5軒あり、文化的な町だなと感心した。 その内の駅に近い一軒は間口が一間程の(多分、日本で一番小さな書店ではないかと思うが、)入口に変わった本が並べてあり、それや両脇の本棚の本を眺めながら一番奥のカウンターまで行き、近くにある建築雑誌をおもむろに買うのが、月始めの私のルーティンだった。 店主のおじさんはいつも毛糸の帽子を被った飄々とした人で、奥さんが時折店番をしていたが、その姿はいつも読書に耽り、客のことなど眼中にない感じだった。 ある時、その理由を聞いたら、「私は本屋の奥さんになるのが小さい頃からの夢だった。だっていつでも本が読めるじゃない⁈」と屈託のない笑顔と返事が返ってきた。 だが、おじさんが身体を壊し、本の品揃えも減って、(店番に立ち始めた息子さんの趣味なのか)ウルトラマンの怪獣のフィギュアが並び、やがて店は閉じられた。 今では本屋は1軒も無く、代わりにパチンコ屋が2軒、ガールズバーが5軒ある。 本を買う時は、隣町で降りるか、渋谷か新宿に寄るか、ネットで注文するしかない。 似たようなことは他にもある。 クリーニングは、ある中年の夫婦がやってる店に頼むと昔から決めていた。それはいつも丁寧に洋服を見て、「このシミは何ですか?」とか、「このほつれは私でよければ直しておきますね!」とか、仕事振りが丁寧で、アイロンもとても上手だったからだ。(もっと安い店は他にもあったが、この信頼には代え難かった) ある時、壁に掛けられた黄ばんだ免許証を見て、この地で40年続けてきたことを知り、信頼がさらに深まった。だが突然、地方にいる親の介護のため店を閉じると言われた。 それ以来、いくつかの店で試したが、この店ほど信頼に足る店はなく、未だ決定打がない。 コンビニ(9軒)やスーパー(大小8軒)はたくさんあるが、昔からの魚屋や八百屋は少ししか残っていない。その内の一つの顔見知りの八百屋は、行く度に「毎度〜!」と元気な声で迎えてくれ、「今日はこれが美味いよ!」と言って安くしてくれる。 ただ、この店も一家で切り盛りしているから持っているが、トップの老夫婦が引退したら、その後どうなるかはわからない。 こうしたことが知らない間にどんどん進んでいる。 私達の日常を支えていた潤滑油のような小さな店が消えて、のっぺら坊なギスギスした町に変わって行く。 便利さと安さばかりが追求され、当たり前だと思っていた安心安全や快適さが壊れ、脆弱さが露わになって行く・・・ 日常性の狭間で起きてることを、もう一度きちんと見つめ直す機会になるなら、 コロナ騒ぎで家にいるのも、あながち悪いことばかりではない。 かずま #
by odysseyofiska
| 2020-04-14 23:38
2020年 03月 18日
新型コロナウイルスが世界中で蔓延している。 毎日そのニュースばかりで、イベントやスポーツの中止や延期が続き、学校休校やテレワーク・時差通勤など、仕事や学業にも影響を与えている。 日常生活での行動範囲が狭まり、社会的閉塞感が漂う。 だが、悪いことばかりではない。 まず、家にいる時間が増え、その分、本を読んだり、忙しさにかまけて後回しにしていたことをやれる時間が増えた。 私の場合、この所ずっとサボっていた建築雑誌や建築の本を読む時間が増えた。 また、マルクス・ガブリエルの本を手にして読み始めた。(彼がTVのある番組でGAFAやトランプに対して懸念を述べ、反撃する姿を見て、興味を持った) 家の掃除や溜まっている本や物の整理を始めた。(だが、Fの遺品やMの部屋の整理は始めるとすぐに手が止まってしまい、遅々として進まない) 苦手なITを勉強して、スマホやネットの付け替えをした。 溜まっていた雑用も(半分くらいは)済ませることができた。 次に、(仕事が忙しくないうちに)仕事のしかたを朝型に移行し、その分、終わりを早めた。(夜6時からは別のことをして、一日を2度生きたいと思った) また、ある程度のまとまった時間ができたので、自分の来し方行く末をもう一度振り返り、生きてる間に何をするかを確認した。(中身は秘密だが…) つまり、世の中が減速化することで「ゆっくり深く考える」ことを取り戻した。 産業革命以前は、人の仕事や生活と思考の速度は一致していた。 だが、産業革命後は便利さと引き換えに社会が速度アップし、さらに大量生産社会に入ってからは(資本の論理も加わり)さらに速度アップした。 現代のIT社会では、見えない社会の速度に人は付いて行けず、多くの乖離を引き起こしている。 便利さと速度を争うだけが未来ではない。 所詮、人間はアナログな生き物で、デジタルなロボットではないのだから。 心の中でドラえもんに(減速化・見える化装置も欲しいな)と呟いた。 かずま #
by odysseyofiska
| 2020-03-18 12:43
2020年 03月 10日
そして明日は9年前に東日本大震災があった。 ここに2枚の写真がある。 上は東京大空襲後、下は東日本大震災後の写真で、どちらも街並みが破壊され、廃墟のようだ。 一方はアメリカ軍の焼夷弾の無差別爆撃による大火、もう一方は地震とその後の津波による災害で、(直接の関係はないが、)私にはどこかでつながっているように思えてならない。 東京大空襲は一晩で10万人以上の人が亡くなった。 (一日では史上最悪の犠牲者を出した空襲だ。同じ年の8月に原爆投下された広島、長崎では、年末までに14万人、7万人以上が亡くなったが、一日の数ではない) それは愚かで邪悪な心から発せられた、悪魔の大量無差別殺戮行為だ。 東日本大震災は死者と行方不明者合わせて2万人近くの犠牲者が出た。 見かけ上は M9.0の地震に端を発した天災だが、貞観地震(869年 M8.4)や明治三陸地震(1896年 M8.2-8.5)などの過去の歴史や文献は以前から広く知られていた。 また、チェルノブイリ('86)やスリーマイル島('79)の事故など、原子力発電所の危険性は誰もが知っていた。 それが経済の発展や便利さを優先するあまり、自分が生きてるうちには来ないだろう、来ても大した被害はないだろうと勝手に決め込み(こういう心理は未だに日本人のどこかにある)、安全安心を疎かにして準備や対策を怠った。 それが起きてしまって、初めて悔やむことになる。しかも、福島第一原子力発電所事故という、未来への大きな負の遺産まで抱え込んでしまった。 やはり、愚かで身勝手な心から発せられた、多くの警鐘を無にした行為の結果だ。 人はいつも反省した振りをして実は反省をせず、このような行いをシーシュポスの神話のように繰り返す。(その最たる者が、実は私だ) ビル・エヴァンスの「My foolish heart」でも聴きながら、 2つの出来事を静かに心に刻みたい。 かずま #
by odysseyofiska
| 2020-03-10 18:50
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