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2007年 02月 17日
子供の頃初めて出会った表参道は、今とは違って人通りはそれほどでもなく、静かで穏やかな街だった。 坂道の途中にある教会も、今とは違って高い黒い木の塀で囲まれ、(中で何をやっているのかよくわからず)ちょっと神秘的で、前を通る度にドキドキした。ベンチでは、ひなたぼっこをする老人や毛糸の編物をする女の人が、日がな一日ゆったりした時間を楽しんでいた。中でもそうした雰囲気を自然と醸し出していたのが同潤会アパートで、その前を通る度に、なつかしいおじいさんやおばあさんに出会った時のような、なごやかな穏やかな気持ちになった・・・ それが無味乾燥でのっぺらぼうなファサードのビルに取って代わられた。 コマーシャルな店が前面に出て来て、それまであった味わい深い歴史の匂いや、草木や蔦の香り、そこに住む人々の息遣いは消えてしまった。突然、時間はせわしなくなり、人々も立ち止まることなく店内を歩き続けて・・・何と言うことはない、あの大好きだった建物は、ただのショッピングセンターに代わってしまったのだ。 主を失った表参道は急速に魅力をなくし、いつのまにか私には「他人の街」になってしまった。 だが、まだいい。表参道には美しい坂道とケヤキがあるから。 それに頭から冷水をかぶせられるような事件が昨年末から今年にかけてあった。 どこのバカが言いだしたのかわからないが、突然、表参道に(既存の街灯を囲むように)巨大で不細工な白い箱があっという間に出現したのだ。それも、ほとんどのエリアを覆うかのように、無数に。足元には企業のCMが描かれ、歩道を大きく占拠し、歩く煩わしさはこの上ない。 これがクリストの作品のように「そこに存在する物の意味を問い直す」というのならまだわかる。だが、そんな批判精神や芸術的な野心もなく、このバカバカしい箱は、クリスマスや正月に人々を引き寄せる、(以前あったケヤキのイルミネーションに代わる)コマーシャルな客寄せパンダとして作られたのだ。 だが、子供でもわかるだろう、それが表参道のケヤキと坂道の作る一番美しい景観を台無しにしていることくらいは。 このバカなデザイナーは夜のことしか考えなかったのだろう。しかも自分がいかに美しく見えるかしか考えず、昼間のことや、表参道の残された主であるケヤキと坂道への尊敬や、ましてやそれらをいかに美しく引き立てるか、などはこれっぽっちも考えなかったのだ。 オーナーに媚びを売る、ただのイエスマンで、デザイナーの風上にも置けない奴だ。 サッカーなら、一発レッドカードで退場だ。 この不細工な箱が撤去されて元に戻るまでの一月半は、表参道を歩く気がとてもしなかった。 かずま #
by odysseyofiska
| 2007-02-17 22:40
2006年 12月 05日
一年のうちで一番好きな季節は?と聞かれたら、迷わず、「秋」と答える。 何月?と聞かれたら、「11月」と答える。 それほど私は、11月の澄みきった空気ともうじき冬が来る緊張感、そして色づいた樹々の木の葉の散る景色が好きだ。 この時ばかりは日本人に生まれたことの幸運と喜びを感じ、神に感謝する。 しかし今年の11月はいつもの11月ではなかった。 いつまでたっても空気は冷たくならず、あの独特の緊張感が沸き起こってこない。 しかも葉の色づきは遅れ、楽しみにしていた、この世の果てのような木の葉の乱舞も見られない。 いつもだったら「黄金の11月」と呼んでいた季節は過ぎて、やっと12月に入ってからそれに似た景色が始まった。 でも、良しとしよう。曲がりなりにも「黄金の12月」を味わえたのだから。 この頃になるとカメラを持って黄金色に染まった景色を写真に撮るのが昔から好きだった。ファインダーの中の黄金色をぼんやり見つめていると、いつしか子供の頃に戻って、こんな景色の中で遊んでいた自分と重なっていくのだ・・・ 確か、廃屋のような木造の2階建ての校舎があった。海を見下ろす丘の上に。 そこで兄が絵を習っていて、「入ってはいけない」と言われていたので、一人で外で遊んでいた。秋のよわい陽射しの中で。 冬が近づいていた。 不安だった。 夕陽を見た。 死を感じた。 が、それはどこか甘美で、「永遠」につながっていた。 十字架の格好をして崖から飛び下りた。 わらの上にやわらかく落ちた。 何回も何回もそれをくり返した・・・ そのままでいると本当に死んでしまうような気がしたので、「入ってはいけない」と言われた校舎に入り、兄の所へそっと歩いていった。 絵の先生が気づいてあたたかく迎えてくれた。 死なないですんだ・・・ 黄金色の景色を見ていると、こんな子供の頃の記憶を思い出す。 秋は「永遠」につながっている。 かずま #
by odysseyofiska
| 2006-12-05 22:44
2006年 11月 22日
休日、武相荘に行ってきた。 白州次郎と正子が生涯の大半を過ごした家だ。 古い農家を買い取り、住みながら長い年月をかけて手を入れていったもので、質素でありながら味わい深く、選ばれた調度品と共に、故人の風情がしのばれる建物だった。 その中に、正子の一文が壁に掛けられていた。 ・・・それから30年かけて、少しずつ直し、今もまだ直し続けている。 もともと住居はそうしたものなので、これでいい、と満足するときはない。 綿密な計画を立てて、設計してみた所で、住んでみれば何かと不自由なこと が出て来る。 さりとてあまり便利に、ぬけ目なく作りすぎても、人間が建築に左右される ことになり、生まれつきだらしのない私は、そういう窮屈な生活が嫌いなの である。 俗にいわれるように、田の字に作ってある農家は、その点都合がいい。 いくらでも自由がきくし、いじくり廻せる。 ひと口にいえば、自然の野山のように、無駄が多いのである。 (白州正子『縁あって』「思うこと」より) 「ぬけ目なく作りすぎても」とは、さすがに目が抜けている。 「ぬけ目なく作ること」が、見かけだけでなく、心までも窮屈でつまらないものにしてしまうことを知っていたからこそ、次郎と正子はあばら屋のような農家に惹かれ、それを愛し、骨太で質実剛健、豪放磊落な精神を受け継いでいったのだろう。 現代の住宅、建築とは対極にある物である。 元々の農家に手を加えていった部分はどこもすばらしい。 書斎は、大きくはないが、凛とした空気が漂っている。土間を改造した居間も独特な雰囲気がある。和室や寝室もそうだ。 それが増築した部分になると、とたんに線が細くなる。食堂や離れ、長屋門前の車庫などはまだいい。が、一般公開のために新しく作られた土産物屋は陳腐でまがい物の域を出ていない。何となくまわりと似せただけで、ぬけ目なく作られているからだ。 帰りがけに裏庭を散歩し、戻ってもう一度農家だった部分を見上げると、壁に秋には似つかわしくないアサガオが咲いていた。 生き物は美しい。 建物もこのように無心でありたい。 かずま #
by odysseyofiska
| 2006-11-22 19:36
2006年 10月 20日
切っ掛けはデタラメで、昔からの友人でもあるクライアントのMさんと食事中、突然、「上海グランプリを見に行こう」と誘われ、一旦断ったのだが、「決勝は10/1だから大丈夫だ」と言われ、それ以上断る理由がなかったので同意したのだ。 Mさんはチャイニーズ系のフィリピン人で、当然の事ながら自分のルーツである中国を深く愛していて、まだその国を見ていない私にその大いなる変貌と躍進を見せようと、これまで何回も誘ってくれたのだが、いつも最後に何かが起きて実現しなかった。 それがあっけなく実現した。しかもいきなりF1である。 会場のサーキット場は市の中心部から車を飛ばして2時間くらいの、静かな田園の中にある。突如として出現したその姿は、ある意味、反中国的である。上海飛行場や中心部の建物もそうだったが、中国の伝統的な様式や風土の匂いが全くせず、極めて人工的、未来的である。 そこにいる人種も東京の渋谷や原宿にいる人種と全く同じで、違和感がない。特に挑発的なファッションの若い女の子は。 そもそもF1という、極めて反中国的なスポーツ(つまり、わずか1時間半くらいの間に膨大なエネルギーとお金を消費し、その結果は何も残らないという、典型的な資本主義社会のゲーム)がここに存在し、人々がそれに熱狂していること自体、不思議である。 要するにクレイジーなのである。何の思想や伝統の脈絡もなく、論理的かつ合理的な説明もなく、突如として巨大なマネーゲームが出現し、人々がそれに熱狂し、色や形が促成栽培の花のように生まれ、咲き乱れている。 どこか日本のかつてのバブルと似ているが、もっと巨大で勢いがあり、ファナティックで恐ろしい。 だが、新しい文化が生まれる時は往々にしてファナティックで、誰もその幾末はわからないまま突っ走っているだけなのかもしれない。言い換えれば、すべてを生み出し、変えていく母体はクレイジーなハートと脳味噌だと言える。創造的でなくなるということはクレイジーな部分を失うということなのだろう。 現在の上海は、まだ世界中のものを真似ている段階に過ぎない。 これが一定の飽和に達した段階で落ち着くのか、それともさらにヒートアップしてその向こうに何かが生まれるのか・・・ レースはシューマッハの勝利で幕を閉じた。 その後、人込みの消えたサーキット場は元の静けさに戻ったが、私の頭の中ではいつまでもクレイジーな爆音が鳴り続けていた。 かずま #
by odysseyofiska
| 2006-10-20 21:21
2006年 10月 18日
建築の本質は「すべてが異なる」、つまり、「すべては世界で唯一無二のものである」ということに尽きる。(ハウスメーカーの建物や建売住宅はここでは問題にしない。) 敷地が異なり、住む人が異なり、要望が異なり、お金が異なり、工期が異なり、つくる工務店や設計者が異なれば、同じものなど存在しないのは当たり前である。 だから考えるに値する。ゲームを解くに値する。困難を楽しむに値する。 なぜなら、それは世界でただ一つのものだから。 あなたや私が世界中でただ一人しか存在しないのと同様に、愛しい、かけがえのない存在なのである。 だからもっと建築を愛してほしい。施主も、設計者も、施工者も、そしてそれを見つめるすべての人も。 個別的なるものが広く深く強く意識されれば、世界はもっと豊かで好奇心に満ちた、活き活きしたものに変わるだろう。 建築家は誰でもいつも、個性的で自分にしか設計できないものをつくりたいと思っている。少なくとも創造的な建築家であれば。 しかし、ここでパラドクスが起きる。 そうして個別的なるものを追いかけ、独創的な特殊解にたどり着いたものほど、普遍性を感じさせ、それがあるのは必然であるかのように思わせてくれる。 個別と普遍はあながち180度異なる物ではなく、それを真剣に追いかけていくと背中でつながってしまう双生児なのかもしれない。 かずま #
by odysseyofiska
| 2006-10-18 21:37
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