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2008年 08月 29日
父が天国に逝ってまもない頃、兄が「今年の夏は長崎に行ってみんなで精霊流しをしよう」と言い出した。いい考えだなと思い、すぐに同意した。 めっきり身体の弱くなった母にとって、長崎への旅はこれが最後かもしれないという思いもあった。 私たち家族にとって長崎は特別な地だ。一家が全員揃いスタートした「はじまりの地」であると共に、かけがえのない記憶が沈かに眠る「聖地」でもあるからだ。 父はこの地の造船所で輝かしいエンジニアとしてのスタートを切った。 母は幼かった私や兄を育てながら家族の成長と未来に希望を託して生きていた。 兄は毎日を神話のように生きながら武勇伝を数限りなく残していった。 そして私は少しボーッとしながらそうした光景のすべてを心に刻んでいた。 兄嫁(あねき)もそろった4人の旅はとても楽しい思い出深いものとなった。 まず、私にとって原初の光景である、西に沈む夕陽と黄金色に輝く海を見ていた山頂に行った。そして、その海の真ん中に浮かんでいた神々しい島が伊王島であることを知った。 次に子供の頃、遠足で登った稲佐山に行った。山頂から見る長崎は、港湾部は全く変わったが、それ以外は変化の後も容易に辿れた。兄と「あそこはどこだ、こっちはどこどこだ」と確認するようにいろんな話をしながら記憶の中の長崎と現在の長崎を一致させていった。 爆心地にも行った。新しい慰霊のための施設や新しい原爆資料館も見たが、どこか建物が形ばかりでよそよそしく、心に響かなかった。子供の頃、貧しい施設で見たケロイドの写真や止まった時計、そこに跪いてお祈りをする人々の印象の方が鮮明で強烈だった。 母は女学校時代の友人と再会し、涙にくれていた。 住んでいた所や昔よく遊んだ所にも行き、すべての記憶が身体の中で甦っていった。 旅の目的の半分は終わった。 子供の頃の精霊流しの記憶といえば、8月15日の夕刻から爆竹が鳴り響き、どこからともなく不思議な形をした精霊船が人々に担がれ集まって来て、それが大きな流れとなり道を延々と続いていく、というようなものだが、我が家ではそれにも増して、兄の武勇伝の一つとして語り継がれてきた。(というのは、その時、私はまだ母のお腹にいて生まれていなかったので、話で知るしかないのだが、)4才にもならない兄は、その精霊船が一体どこに行き着くのか知りたくて、三輪車を漕いで最終地点の大波止(住んでいた飽の浦からは遥かに遠い)で見届け、明け方、三輪車を漕いで、また戻ってきたというのだ。 途中で兄を見失い、捜し続けた両親は気が気でなかったに違いないが、兄はケロッとして報告したらしい。(小さい頃の兄にはこういう話がわんさとある。それにひきかえ私はおとなしく、デタラメが始まるのは後年になってからである。) さて、四十数年ぶりに見る精霊流しは、記憶と同じかそれ以上にすごい爆竹の嵐で、何度か耳元の爆破で音を失い、真空状態に陥った。手足に痛みもたくさん感じた。 それでも間近でそれを味わいたかった。四十数年間の空白を埋めて、激しくそれと一体となりたかった。長崎と一つになりたかった。 人通りで混雑する県庁前の坂道を何度も往復し、汗だくになり、疲れに酔った。たくさんの精霊船を見、たくさんの哀しみを見、たくさんの爆竹を浴びた。そして感じた、長崎の人々の激しい愛を・・・・・ 父を見送る儀式は、その前日の夜の海辺で灯籠流しでおこなった。(精霊流しは法律で禁じられているので、実際に海には流さない。) 父の大好きだった長崎の海に灰の一部も流した。 今頃、彼はヴェネチアの海やアイルランドの沖を航海しているに違いない。 かずま #
by odysseyofiska
| 2008-08-29 23:12
2008年 03月 25日
死について漠然と子供の頃から考えていた(感じていた)ことは既に書いたが、それを間近に、しかも深く考えるようになったのは、やはり父を看るようになってからのことだ。 14年程前に父が交通事故で左脳をやられて以来、私は何度も死を直感した。 最初の頃は死がとても怖かった。 身近で、しかも(とても愛していた)父がいなくなることなど、とても受け入れ難いことだった。 しかし、何度かそうした危機を乗り越えているうちに、その恐怖は少しづつ薄らいで行き、ある時から、ふと死が親しみのある隣人のように感じられる瞬間さえあるようになった。死と生の境界が曖昧になって、夢と現実のようにその間を行き交うことができるような、そんな不思議な感触さえするようになった。 それはやさしい父が、怖がりな私のために用意してくれたギフト(天啓)だったのかもしれない。 父の最期は、ある意味ではとても幸福だったと思う。 入院していた都立の病院は、建物は老朽化していたが、主治医のM先生を始めスタッフの方々の献身的な努力と愛情は並大抵ではなく、行くといつも感謝で心が一杯になった。 病室にはあたたかい空気とやすらかな時間が常に流れていた。 休みの度にそこへ行き、半日を過ごすのが私の日課となった。 そしていつも私自身が癒された。 父の体調は良かったり悪かったリを繰り返しながら徐々に静かに湖面へ近づいていった。 2月に入り、私の腕の中で息を引き取ったと思う瞬間があった。 が、奇跡が起き、父は再びやさしい大きな目を開け、復活した。 その日から私はとても幸福な気持ちになった。 一日一日が神様がくれたプレゼントのように感じられた。 父の生を何かに記録し定着させたいと思い、彼の目を毎日描くようになった。 3月に入り、またこれで最期だと思う瞬間があった。が、再びそうはならなかった。 そして私はある一つの思いに至った。 人生に終わりはない あるのはいつも新しい始まりだけだ 新しい関係が始まるだけで、それと共に生きていけばいいのだ プエブロインディアンの古老のように、天国に行くには今日はいい日和だと思えるような、すべてが自然に感じられる、やすらかな気持ちになった。 そして桜の蕾が開こうとする頃、父は天国に逝った。 私の中で新しい始まりが始まった。 かずま #
by odysseyofiska
| 2008-03-25 09:23
2008年 01月 05日
人は死んだらどこへ行くのだろう?という思いは、小さい頃からよくあった。 それは、私が偶然、長崎に生まれて、物心の付く前から毎日曜日、教会に行かされていた(別に私の家はクリスチャンではないが、母親が子供の情操教育に良いと思い、そうさせていた)ということも影響しているが、むしろ、海や山、夕陽、動植物、昆虫などの恵まれた自然と接しているうちに自ずから身に付いた、生き物の生死への素朴な疑問から発していたように思う。 その当時から、なんとなくぼんやりと、肉体は滅びても魂は楕円形を描いてまた戻って来る、というような(後でわかることだが、)輪廻のような感覚を持っていた。 ある日、兄に(兄とは5つ離れていたので、彼の言うことは絶大だった)その感覚を話したら、死んだらそれっきりで、その先には何もない、というようなことを言われた。 突然、絶望的な気持ちになって、大声で泣いた。(どういうわけか、ミシンの踏み台の中で泣いた。小さな祠(ほこら)のような感覚が自分を守ってくれると思ったのかもしれない。) 母は泣き叫ぶ弟を見て、兄に、なぜ泣かせたのかと詰問したが、違うよ、かずまが勝手に泣いたんだ、と兄は困惑するばかりで、(それは本当に正しかったのだが、)ただただ悲しくて私は泣いた。兄にとっては登校前のとんだとばっちりの朝だったに違いない。 こんな小さい頃の記憶があるせいか、人や生き物の生死には敏感で、また、山川草木すべての自然に同様の感情を私は持っている。 人の死で私に一番影響を与えたのはヨシザカかもしれない。 私は大学時代、何度か建築をやめようと思ったことがある。特に4年の時は、これ以上やっても自分の感覚と世の中(大学)の評価がこんなに違うのだったらやっても無駄だと思い、本当にやめようと心に決めた。 その時にヨシザカと出会った。 彼は何でも「おもしろい、おもしろい」と誉めてくれ、好奇心を丸出しにして自分の意見を言い、その場で起きるすべてのことを楽しんでいた。 一条の光が射し込んだ。 この方向に行けば、俺はまだ建築を続けられるかもしれないと思った。 彼の研究室に入り、かけがえのない充実した2年間を過ごした。 ところが、研究室を出て設計事務所に勤め始めたその年の12月に、ヨシザカはあっけなく帰らぬ人になってしまった。 呆然とした。これからも一緒にたくさん話をし、酒を飲み、山に行き、教えを受け、また、俺もこんなに成長したぞ、と毎回見せて喜ばそうと思っていた、その人が突然、消えてしまった。 ずっと黒い服を着た。高校生の時から付けていた日記もいつのまにか付けなくなり、結局、焼却してしまった。心の中に虚ろな気分だけが残った。 その後、私は勤めていた事務所を4年ほどで辞めて、糸が切れた凧のようにヨーロッパへ放浪の旅に出かけた。それは、もちろんヨシザカが原因なのではなく、ただ私の生が煮詰まってしまったので、もう一度それをチャラにする必要があったからだが、その時、思い出したのは、生前、彼と約束していた旅の計画のいくつかだった。それらは中国やインド(チャンディガール)への旅だったが、その前に、以前から計画していた、彼も幼年時代を送り、その思想形成になんらかの影響を与えたヨーロッパを最初に見てやろうと思い、実行に移すことにした。そしてこれを期に、私はヨシザカのことは徐々に忘れていくだろうと思っていた・・・ だが、気が付いたら、私はヨシザカと会話をしていた。 会話の中のヨシザカは永遠に63才のままで、あの独特の(咽が痛くなるような)声で話しかけてくる。 彼はけっして答えを言わない。あの当時のように。 安直な答えを出そうとすると、グジャグジャに壊される。 不遜で卑しい答えを出そうとすると、雷鳴のように怒鳴られる。 だが、真剣に悩んで格闘した結果に出した答えは、どんなに稚拙であっても、 その良い点だけを指摘し、励ましてくれる。 私はこれからもヨシザカと会話を続けるだろう。 私の父は今、病院のベッドで静かに眠っている。 彼はもうじき向こうの世界へ逝ってしまうだろう。 先日、イギリスの友人からメイルが来た。 彼女はいつもやさしく、最後に父のことを尋ねる。 私は最後にこう書いた。 My father is flying slowly on near the surface of the lake now. He will touch the water before long, and his body will sink in the lake. But his spirits will fly up in the sky, and I will talk with him forever in my heart. かずま #
by odysseyofiska
| 2008-01-05 22:40
2007年 11月 16日
父はその後、幸運にも希望していた施設に入所でき、穏やかで充実した人生を始めたかに見えたが、一月もしない内に誤嚥(ごえん)性肺炎を起こし、K病院に入院した。 それまで「誤嚥」という言葉を聞いたこともなかったので、初めはどういう漢字でどういう意味なのかわからなかったが、辞書を引いて、ようやくそれが「誤って気道内に食物が流入してしまうこと」という意味で、ツバメの子供が大きく口を開けて餌を得る光景が浮かぶような字なのだということを知った。残念ながら、その前に「誤」という字が付いて、その光景は暗転するのだが・・・ 父がそういう状態になることで初めて気づいたのは、この「誤嚥」という言葉は、現代人の毎日の生活や人生の歩みの中で、あらゆる部分に起こりうる一般的な現象なのだということだ。 新聞やテレビのニュースを見ていると、健康体にも関わらず「誤嚥」を起こした人の記事が多く並ぶ。政治や社会だけでなく、スポーツや教育の現場でも同様だ。 せっかく功なり名を遂げて、後は悠々自適の生活をするだけの人が、「誤嚥」を起こし、晩節を汚す例もよくある。 一体、この誤嚥はどこから来るのだろう。一個人の精神の在り方なのだろうか。それとも社会的な構造の欠陥、もしくは変容なのだろうか。それとも人間という愚かな生き物にまとわりつく性なのだろうか・・・ その後、父は一度は治って退院したが、誤嚥を再発し、入退院を繰り返す日々を送っている。 昨日は父が交通事故に会ってから14年目の日だった。 その間に彼は多くのものを私に与え、伝えた。 たぶん、彼の、目に見える生命はそれほど長くはないだろうけれど、 目に見えない生命はこれからも永く私の中で生き続けるだろう。 かずま #
by odysseyofiska
| 2007-11-16 23:00
2007年 05月 17日
私の父は13年程前に交通事故に会い、左脳をやられた。 以来、母と私が父の面倒を見てきたが、昨年、その父と母が相次いで倒れ、入院する騒ぎが起きた。幸いどちらも大事に至らなかったが、母もリハビリが必要な身体となり、事実上、父の面倒を自宅で看ることは不可能になった。 その結果、父は老健(老人保健施設)の世話になることになり、3ヶ月ごとに延長するか、新しい施設に移動するかしていたが、「そろそろお父さんの介護をどうするか、真剣に考えた方がいい」と母のケアマネジャーから諭され、重い腰を上げて、仕事の合間に世田谷区内の特養(特別養護老人ホーム)を視て回った。 結局17ある施設の内、15を視た。(後の2つはHPで平面図を見て、類推できた。) それだけ多くの施設を真剣に視たのは、たぶん、ここが父の終の住処にならないとも限らない、との思いがあったからと、私の職業が建築家で、いろんな点で考えさせられ、勉強になり、かつおもしろかったからという理由に過ぎない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 最初に視たのは、家から一番近い、歩いて行ける所にあるYという施設だった。 入ってみて驚いた。ホテルのロビーのような空間で、そこから見える中庭や館内のデザインや調度品も申し分なく、これまで見てきた老人介護施設の常識を覆すには十分だった。 ロビーのソファで待たされ、15分程その余韻に浸っていたが、ふと何かがおかしいという気がしてきた。 音がシーンとし過ぎる。人の気配や生気が感じられない。いつもだと施設に入った途端に感じる騒音や人の賑わい、煩雑なわずらわしさがクリアに抜け落ちている。 それはしばらくしてやってきた係の説明でわかった。 ここは入所者のみの施設で、通常なら1階にあるデイサービスやリハビリ、相談センター、ショートステイなどの施設が無く、その代わり、だだっ広い空間の中にリゾートホテルのようにソファや机やイスがゆったりと並べられているのだ。 その雰囲気は上階の入居者スペースも同じで、人々はいくつかのグループに分かれ、中央の中庭に面したスペースでゆったり過ごしているのだが、どこかシーンとしていて生気が感じられない。その分、各人の部屋のドアや各所を飾るポストモダン風のデザインが目立ち過ぎ、外観の、これまたポストモダン風のデザインが勝ち過ぎている。 この施設は世田谷区内で一番古い施設だったのを数年前に建て直した際にこのようなデザインやコンセプトに変えたのだが、(入居者の家族や施設の運営者にとっては誇らしい、自慢できる建物かもしれないが、)果たして実際に生活している老人にとって、少なくとも私の父のように、おとなしい、日常生活で刺激の必要な老人にとって、これが最善の選択だったのだろうか。おこなう行為や対象も含めて、最初の設定を過ったまま突っ走った結果、最終的にこうなってしまったのではないだろうか・・・そうした疑問が拭い去れなかった。 それに対し、まったく逆のケースで教えられた施設がある。Kという施設である。 この施設はたまたま父の入っていた老健や病院と隣接していて、日頃から老朽化を目にしていたので、最初は候補から除外していた。視たのは、偶然時間が空いたからに過ぎず、期待もしていなかった。 中に入ると、案の定、内部は外部以上に老朽化していた。元気のいい女性の施設長が案内してくれたが、一通り見たら早く帰ろうと心に決めていた。 薄暗い中廊下で何人かの入居者がたむろし、お茶を飲みながら話をしていた。 いきなり施設長がその会話の中に入り込み、気さくに話をリードしながらテンポをヒートアップさせていく。その場にいた人の顔がみるみる輝き始め、笑い声が起こり、不意の来訪者である私にまで話し掛けてくる。 ところがその話す言葉がわからない。まるで外国語を聴いているかのようだ。 それを施設長は、その老人に変わって活き活きした日本語で私に話しかける。私が言葉を返すと、老人はニコニコして握手してくる。すべてのバリアが取り払われる瞬間だ。 施設長は入居者だけでなくスタッフにも気さくにどんどん話しかけて行く。 「古い施設だがゴミが落ちてなくて、とてもきれいだとこの人(私)が誉めてたよ、○○さん」と若いスタッフに話しかけ、その場のコミュニケーションの輪の中に部外者である私までもどんどん取り込んで行く。 みんな活き活きしている。入居者も、入居者の家族も、スタッフも。 完璧に教えられた。 建築なんて人間に比べたらなんてちっぽけで、たいしたことないのだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ そのほか、最新のユニット型ケアの施設も視た。 廊下がまるで無く、中央にリビング、ダイニング、キッチンがあり、両サイドに個室が並んでいるFという施設は「大きな家」のようで、大変共感を覚えた。これなら機嫌の良い時は中央に出てきて、悪い時は個室にそのままいれる。入居者のプライバシーやプライドを大切にしている。 ただ、私の父の場合は、もっと大勢の人がいる場で元気をもらい、刺激や変化の多い生活に接していられる方がいいように感じた。 結局、建物だけでなく、マンパワーや、行き易さ、母のリハビリと共有できる点など、総合的に考えて、Kという施設(先程のKとは違う)を選び、申し込んだ。 一月ほどかかったが、それ以上に多くのことを学び、考え、感じた。 ちっぽけな建築を少しでも人間に近づけたい。 かずま #
by odysseyofiska
| 2007-05-17 20:32
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