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2021年 09月 06日
夏が終わると共にオリンピック・パラリンピックが終わった。 やるのかやらないのか本格的な議論が行われず、いつ始まるとも知らないうちにひっそり始まった不思議な大会だったが、終わってみれば選手の頑張りで、心に残るシーンが多い大会だった。 (個人的には、13年間の忍耐の末に連覇を果たした女子ソフトボールの上野由岐子の熱投や、バスケット王国アメリカをあと一歩の所まで追い詰めた昨日の男子車いすバスケットボールの奮闘は強く心に残る。 観終わった後、勝ち負けを超えてカタルシスを覚えた) 選手は大会を開いてくれた主催者や国民に皆判を押すように感謝を述べたが、それだけ困難な状況での開催に各自がプレッシャーを受けていたのだろう。 本当は不手際で後で後でに回った主催者や、コロナ禍で外出を制限され、何の楽しみもない夏休みに唯一の楽しみを貰った国民の方が選手に感謝すべきだったのに・・・ 純粋にスポーツの力を感じた。 政治家やスローガン、開会式・閉会式のアトラクションは無くてもよかった。 だが、大切なのはこれからだ。 当初の予定とは異なる形で行われた大会を、単なる一過性のイベントで終わらせてしまうのか、それともその意味をもう一度捉え直し、未来につなげていくのかで、その価値は大きく異なる。 (パンデミックはこれからも起きるだろうし、それを想定内とした社会のあり方・準備が必要であることは言うまでもない) まず、今回のオリンピック・パラリンピックで設けられた施設だけでなく、都市の構造自体が、これからの共生社会を目指すべく、ユニバーサルデザインシティーになっていって欲しい。(ここで言う共生社会とは、健常者と障害者の共生だけでなく、性の多様化や多様な人種との共生ももちろん含まれている) アジア、アフリカ、南米のいくつかの国以外は、(特に先進国は、)今後、少子高齢化が進み、多様な国からの人を受け入れて、多文化との共生が必要になるのは明らかだ。 日本はその良い先進事例となり、世界をリードしていって欲しい。 また、オリンピック・パラリンピックの役割は常に社会の変化と共に変容し続けている。 これからの社会を考えれば、シニアオリンピックも加えた3つのスポーツ大会が同じ都市で順次行われるべきだし、その順序はパラリンピック、オリンピック、シニアオリンピックの順がいい。 最初に多様性と共生社会の象徴でもあるパラリンピックから始まり、次にハイレベルのオリンピックが行われ、最後はレジェンド達も競技者として再び集まるシニアオリンピックで締める。 60歳を過ぎたカール・ルイスが走る姿やマイケル・ジョーダンの美しいシュートを見れば、皆勇気が湧くだろうし、人生を深く考え、未来に希望を持つこともできるだろう。 そしてスポーツの最大の力は、勝ち負けを超えて、終わった後に相手を称え認め合う精神であり、それを養う力だ。 これを続けてあらゆることの規範にしていけば、やがてバカバカしい戦争や争いは減って行き、世界の平和へつながっていくだろう。 そんなことを、パラリンピックの閉会式の選手達の笑顔を見ながら夢想した。 かずま #
by odysseyofiska
| 2021-09-06 14:12
2021年 08月 25日
正確には「中心性漿液性脈絡網膜症」(ちゅうしんせいしょうえきせいみゃくらくもうまくしょう)という早口言葉のような目の病気で、12年ほど前に出張先の札幌で初めて、見る景色、見る景色の中央に黄色いタンポポのようなものが見えてびっくりし、東京に戻ってすぐに病院で精密検査をして、その病名が分かった。 (医者はその時、「30代から40代の働き盛りに多い病気です」と言ったので、少し得した気分になった) 原因はよく分からないが、過労やストレスが溜まった時に発症するケースが多く、事実その時もあるお茶屋さんの2つの札幌の店やニセコのレストランの設計で徹夜に近い状態が続いた矢先に起こった。 レーザー光線を網膜の水が漏れ出ている部分に照射すると治るらしいのだが、私の場合はその部分が網膜のほぼ中央で、失明の恐れがあるとのことので、結局、目の血流を良くする薬を辛抱強く飲んで、黄色いタンポポは小さくなり、やがて消えた。 だが、治癒に半年近くかかったので、右目の垂直水平は少しガタガタになり、(建築家にとってそれは少し致命的だったが、)左目で補正する癖が自然と身に付き、そのうち気にならなくなった。 その後、半年ごとに精密検査をして異常がないことを確認し、安心していたが、この春、突然それが再発した。今度は小さな金魚の形をしている。 原因は明らかだ。相続によるストレスだ。 26年間一人で行ってきた両親の介護が思ってもみなかった酷い結末を迎えようとして、私はショックを受け、死をずっと考えた。 深い闇のような時間を過ごした。 そうしたら、突然、金魚が現れた・・・ 結局、私を救ったのは、友人達と建築だった。 私はこれまでの人生で、お金儲けや裕福な暮らしとは無縁な生活をしてきたが、それと引き換えに、かけがえのない人々と成すべき目的を自然と得てきたことを今回知った。 やがて金魚は小さくなり、消えていくだろう。 だが、金魚がいたこの半年間のことを私はけして忘れない。 かずま #
by odysseyofiska
| 2021-08-25 19:11
2020年 12月 28日
記憶の中に最初にバラが現れるのは、長崎で幼稚園に通ってた頃のことだ。 友達の女の子の家に遊びに行った。その玄関先の庭に赤いバラが咲いていた。 バラの向こうにM重工の岩瀬道のドックがあり、その対岸に白い洋館があった。 白い洋館をバックに咲く赤いバラは鮮烈で、子どもの心に強く残った。 (後年、建築を学ぶようになって、その洋館が曾禰達蔵設計の「占勝閣」であることを知った。M重工に勤めていた父の計らいで中を見ることもできた。その後、岩瀬道のドック「第三船渠」と共に世界遺産に選ばれた。私の中でグラバー邸と共に記憶の最初に出てくる洋館だ) 次にバラを意識したのは、中学の頃読んだ「星の王子さま」だ。 この童話には寓意に満ちたエピソードが数多く出てくるが、とりわけバラの話は印象的だ、というか、他の話とはトーンが違って何度も繰り返し出てくるので、作者の強い思いを感じる。 王子は不実なバラに嫌気がさして自分の星を出て旅するが、思い出すのは残してきたバラのことばかり。そしてやがてバラが特別な存在であることに気づき、再び星へ戻る。 童話に置き換えているが、男女の恋愛の機微を描いて、艶かしささえ感じた。 こうしてバラは私の中で特別な花になっていった。 とりわけ白いバラは(父も好きだったので、)特別な花になった。 母は5月の半ばが誕生日で、それと近い「母の日」も兼ねて一輪の白いバラを贈るのが昔からの習わしだった。 だが、今年、それを手にすることなく、天国の父の元へ旅立ってしまった。 長い人生の中で、とりわけ今年はコロナと共に思い出深い年となった。 年末に元教え子達から、結婚や子どもが生まれた、一級建築士試験に合格した、という知らせをもらった。(中にはその3つを同時に叶えた者もいる) 真にめでたい話で、心洗われる思いがした。 来年が全ての人にとって健康で実り多い毎日でありますように そして、より良い思い出で心満たされますように かずま #
by odysseyofiska
| 2020-12-28 22:56
2020年 11月 26日
H君は大学の研究室の一つ上の先輩だが、実は同い年で仲の良い同朋だ。 私が30の時にヨーロッパを放浪したのも、「ローマに居るのはもうすぐ終わりだ」という彼からの葉書に対し、「ああ、じゃ行くよ」と返事したのが発端だった。 なんだかんだ話をしていくうちに、「明日、遊びに行ってもいい?」と言うので、「もちろん、いいよ」と答えた。 電話を切った後、なんだか楽しい気分になった。 朋あり遠方より来る、また楽しからずや、だ。 茶人が客人をもてなす前にあれやこれや考えながらウキウキする気分に近いものを感じた。もちろん、私の頭にはワインとつまみ程度しか思い浮かばないが・・・ そして翌日夜になった。定刻少し前にH君が食べ物を持ってやって来た。 私もチーズや野菜を切って簡単なつまみを作り、ワインを開けて会話が始まった。 最初に、2週間ほど前にバンド仲間と三密な環境で演奏してコロナを心配したが、別に体調に異変が無かったので遊びに来たという前振りがあり、彼の持ってきた3つのレイバンの眼鏡の話になる。私もスティーブ・マックイーンが好きだったので最初に買ったサングラスはレイバンで、今掛けてる眼鏡もレイバンだと見せる。 次に彼の息子さんが今度インドのムンバイに赴任するので、最近インド映画を観るようになった話になる。私も昔、岩波ホールでサタジット・レイの映画を観た話をし、さらにレイと仲の良かった黒沢の映画の話に移っていく。H君と彼の奥さんは大変な映画狂で、特にイタリア映画は強いので、映画の話になると延々と続く。 この辺で1時間半くらいが過ぎた。 酔う前に今日の本題を片付けておいた方がいいだろうということになり、お墓の話に移る。実はH君はご両親のお墓を青山墓地に現在設計中で、2年半前に父の墓を多磨霊園に設計した私に意見を聞くのが来訪の主な目的なのだ。 用意していた父の墓の図面と手描きの原寸図を見せて、その時の話をする。(私はいつも詳細図は原寸で描くが、墓は小さかったので平面図や断面図も原寸で描いて、それをスタッフのS君がA3の図面に縮小してくれた) H君のお墓の案は、長方形の敷地の端と真ん中辺に直方体と半球の二つのアブストラクトな石がある彫刻的な案で、地面には迷路のような模様が描かれている。 多分、時間が過ぎて朽ち果てても廃墟のモニュメントのような趣きは残るだろう。 見ていて彼の卒計を思い出した。 私とは異なるが、こうして一つ一つのお墓がもっと個性的な形になって行けば、石材店の言いなりの似たお墓が並ぶだけの墓地でなくなり、もっと趣きのあるものになるだろう。 その後、ヨシザカの多磨霊園のお墓の話やベルリンの墓地の話、アスプルンドの森の礼拝堂の話になり、彼が最近アスプルンドの複製本を手に入れたことを知り、そのマニアックぶりに思わず、昔と変わらないなぁと笑った。 気がつけば、夜の12時近くになっている。 驚いて、慌てて帰る支度をし、外に出て、表参道で別れた。 (私は帰れたが、彼は途中で電車が無くなり、近くの駅から歩いて帰ったと翌日知った。メンゴ〜!) 友と語れば、時空を超えて昔に戻り、当時のように話ができる。 ありがたいものである。 かずま #
by odysseyofiska
| 2020-11-26 21:19
2020年 09月 21日
何にもつよい興味をもたないことは 不幸なことだ ただ自らの内部を 眼を閉じて のぞきこんでいる。 何にも興味をもたなかったきみが ある日 ゴヤのファースト・ネームが知りたくて 隣の部屋まで駈けていた。 飯島耕一の詩集「ゴヤのファースト・ネームは」('74)を久しぶりに読んだ。 この詩集は大学時代に初めて読んだが、飯島耕一の詩集の中では一番平明な言葉で書かれていて、言葉がすっと入ってきた。特に表題作は好きで、何度も読んだ。 この表題作は16篇の詩から成り、数年前の恩師とのスペイン旅行と現在とが重層的に語られている。もっと詳しく言うと、飯島耕一は旧制高校のドイツ語教師の恩師と1970年にスペインを旅行をし、帰国後、三島由紀夫の割腹自殺事件や恩師の急逝などで精神的に鬱になり、詩が書けなくなる。 この詩は、そこから回復する様子が書かれていて、読んでいて、どこか爽やかな感動がある。 山が近づいた シェラネバダ ときみは言った。 また山が近づいた シェラネバダ と彼が言った。 しかしシェラネバダはなかなか来なかった。 そしてとうとう シェラネバダがやって来た。 時間はあのとき 大きく弧を描いて、 何十分かずつの塊りで経って行った 一日は ゆるやかな 数呼吸でめぐって行った。 恩師との列車の中での会話がどこか微笑ましく、楽しい記憶となって詩人を勇気づける。 生きるとは ゴヤのファースト・ネームを 知りたいと思うことだ。 ゴヤのロス・カプリチョスや 「聾の家」を 見たいと思うことだ。 見ることを拒否する病いから 一歩一歩 癒えて行く、 この感覚だ。 (何だかサフラン入りの サフラン色した皿なんかが眼にうつって……) その入口に ゴヤの ファースト・ネームがあった。 ここには既に答えが暗示されている。(ゴヤの名前は、フランシスコ・デ・ゴヤ) だが、詩人の関心はさらに先へ進んでいく。 いまは 一年間絵筆をとらず 「恐ろしい性質」の病気のなかにあった ゴヤのことに関心がある。 「煮えたぎる」ほどの血をもったゴヤが ひそかに 身をかくしていた一七九二年九月から、 九三年七月までの 空白に。 ゴヤと自分との似た関係に思いを馳せながら、多くの言葉が費やされ、自分を少しずつ取り戻していく。 そして、最後に詩はこんな言葉で終わる。 ゴヤのビュランが 傷つけて行った 時間を、 きみは 一枚一枚 めくって行った。 * * * 12年前、Fが亡くなった時、私はすべてのことをやりきった思いがあった。 だが、今年四月、Mが亡くなった時は全くそれがなかった。 それまでは毎週施設に通ってボディランゲージで会話をし、その度に回復するのを肌で感じてきた。だが、コロナ騒ぎで2ヶ月半会えない間にMは体力と気力を失ってしまった。連絡が来て、Mに会えたのは最後の3日間、合計1時間だけだった。 呆然とした。 全てが途中で断ち切られた思いは葬式の後も抜けず、日を追うごとに喪失感が深まっていった。遺品を整理しててもすぐに手が止まり、何もしたくない日が続いた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ そんな時に再びこの詩集を手にした。 飯島耕一やゴヤと私の心が重なっていった。 私も、ビュランが傷つけて行った時間を、一枚一枚めくりながら、 自分を見つめなおし、再び前へ歩いていきたい。 かずま #
by odysseyofiska
| 2020-09-21 19:37
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