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2014年 04月 12日
「明日死んでもいいように今日を生きろ 生きてる限りは永遠に学べ」 これは高校時代に知ったガンディーの言葉を私流に変えて、大切にしている言葉である。 ガンディーの言葉は、真理と愛と非暴力に生きた人にしては強い語調のものが多い。 それは他人に向けて批判的に発せられたのではなく、 多分、弱い自分に向けて発せられた言葉だからだ。 自分自身を律するためにあえて強く言ったのだ。 ガンディーの伝記を読むと、最初から聖者だったわけではない。 それが人生の荒波に揉まれる中で次第に脱皮して行く。 読んでいて、こうありたい、こうあらねばと思う。 共感を覚える、というより自分自身のこととしてそう感じる。 どうやら今日で人生を一周したらしい。 本人にその自覚は無いのだが、いろんな人からメイルや電話をたくさんもらった。 1周目はエチュードだった。 2周目は今度は本番だ。 ガンディーのように死ぬ気で生きたい。 そして死ぬまでずっと謙虚に学びたい。 かずま #
by odysseyofiska
| 2014-04-12 16:47
2014年 03月 28日
答えは決まっている。 「絶対にいいものをつくってやる」という精神、スピリットだ。 これが無ければものつくりになるべきではないし、 途中でそれを無くしたら辞めるしかない。 この考え方感じ方は40年近く前に初めて建築を学び始めた時から 一度もぶれたことがない。 私はダメな物をつくったら辞める。 事務所もたたむ。 そうでなければせっかく私に頼んでくれた人に失礼だし、 だいたいこれまで一生懸命そうやって生きてきた自分自身に対し失礼だ。 そう思って生きてきた。 次は無い。 毎回いいものができなければそれで最期だ その代わりいいものができれば それは次に繋がる。 今やっていることに全力を尽くし 七転八倒してアイデアを探し続ける。 知恵と工夫の限りを尽くし 完成までさらに良いものにできないかと考え続ける。 「いいものにしたい」と心を砕く。 だが、たとえそうやったとしても、最高の物が必ずできるわけではない。 それを認めた上で、やはりやることは決まっている。 「絶対にいいものをつくってやる」以外は何も無い。 かずま #
by odysseyofiska
| 2014-03-28 20:38
2014年 03月 26日
K氏の本をつくることになった。 追悼文集ではなく、K氏の思想や行動を次世代に伝えるために、時系列に添いながら各年代に在籍した幅広い元所員が書くことになった。 私も執筆することになった。 書かなければ、書かなければと思いながら、仕事にかまけてそのままにしていたら、とうとう催促が来てしまった。 一念発起し、書いた。 (ヨシザカと同様)私に影響を与えてくれたK氏のSpiritについて書いた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私は80年3月にW大の建築(Y研究室)を修了し、4月にK氏の事務所に入所した。 それから4年後に退所したので、いわば建築の博士課程に通ったようなものである。 大学の博士課程であれば教授に付いて助言を得ながら仮説を立てることに没頭するのだろうが、K氏の事務所は当然ながら現実の建物をつくる実戦の場なので、私は毎日を夢中で生きながら多くのことを身体で覚えていった。 (体育会系なのはY研究室も同様だった) なので私には「自分は叩き上げだ」という意識しかない。 Eさん始め多くの先輩方に愛され(=しごかれ)ながら育っていったが、やはり、K氏の一挙手一投足は忘れ難い。 それは簡単に言ってしまえば、純粋で稚気溢れる子供が自分の見聞きしたものに触発されながら毎回感動し、興奮して喋りまくっている、という感じだ。 皆はそれに圧倒され、翻弄され(時には困惑しながら)常に建築に対し純粋に向き合うことを強制された。 それは今から思うと、何と素晴らしい体験だったろう!! K氏の言動は事前に準備し意図したものではなく、その場で自然に湧き上がる無垢な感情そのものだった。だから激高することもあったし、反対に激賞したり、感極まることもあった。 K氏は永遠の子供だった。 雨に感動したり、木漏れ日の光に歓喜したり、両手を拡げて風を感知したりした。 子供の頃に誰もが持ち合せていた好奇心を(大人になれば皆が無くしてしまうのに)死ぬまでずっと持ち続け、身体で感じ、声に出して発し続けた希有な人だった。 だからその言葉には初めて世界を知った人の純粋な驚きがいつも内包されている。 たとえ反発を感じたとしても、最終的には共感することの方が多かった。 一番心に残っている言葉は、 「今までに無いもの、見たことの無いものをつくりましょう!」 この言葉は何度も聴いたし、プロジェクトが始まる度にハッパをかけられた言葉だ。 それを信じて「よ〜し!これでどうだ〜!!」と力んで案を持って行くと、最初のうちは良いが、途中で打ち消され、最後はK氏流の和風で拍子抜けすることが度々あった。 (な〜んだ、あんなこと言うけど、本当はコンサバじゃん!)と怒ったものだ。 だが今から思うと、若き日のK氏は本当に世界で初めてのものをつくることに所員とまい進し、その結果、痛い目に何度もあった。私が所員の頃にはその経験知が自動的に働き、途中から無意識の内に危険をセーブするモードに入ったのだろう、と今なら理解できる。 私のチーフだったHさんから聞いた話だが、虎ノ門の現場に同行した際、施主のKさんから「若い建築家と経験豊富な建築家との違いは何ですか?」と訊かれ、K氏は「失敗する割合が減るくらいで他はたいして変わりません」と答えたそうだ。 けして自分の優位性を誇示するのではなく、若い人と競いながら常に新しい物をつくりたいと願い続けたK氏らしい言葉だ。 思えば、「今までに無いもの、見たことの無いものをつくりましょう!」という精神は、K氏の生涯を貫いている。また、K氏のスクールのすべての作品に通底している。 そしてその原点は「永遠の子供」だ。 私もその精神を受け継ぎ、建築に対し最後まで純粋でありたいと思う。 かずま #
by odysseyofiska
| 2014-03-26 20:15
2014年 03月 10日
誰もが自由に使える建築が好きだ。 建築は本来、街に開かれているべきだと思う。公共建築だけでなく、商業建築、事務所、(できれば住宅も)街と呼応して呼吸した方が良いと思う。 そうすれば、生き生きした楽しい街に自然となるだろう。 渋谷の松濤で手掛けていた車のショールームが2月末に完成し、先週オープンした。 改装する前も違う車のショールームだったが、顧客以外とは接点のない、街に閉じた建築だった。 これではダメだなと思った。ヨーロッパのカフェのように、人々が行き交う人を眺めながらいつも談笑している、そういう街の溜まり場になるようなカフェとショールームが一体となった光景をここに創りたいと思った。 敷地を見た瞬間、直感的にイケルと感じた。 テントのオーニングやサインの位置など、その場でほとんど決まった。 内部にも窓際にカフェを設けて、外と内とが会話する関係を創りたいと思った。 ハイチェアのカウンターをつくることもほとんどその場で決まった。 カフェの厨房やショールームの受付カウンターの位置も、多分ここしか無いだろうというのがすぐに見えた。 問題は裏方さんの動線だった。 客の動線とは別に壁際を這うような隠れた位置に裏方さんの動線を設けたかったが、その中間に電気関係の配線の集中しているゾーンがある。これを動かすのは難儀だし、すべての盤が集中しているのは逆にコントロールゾーンとして魅力的だった。 結局、なんだかんだ調べて、横の壁をぶち抜いてドア一枚分の抜け道を確保することがどうやらできそうだということがわかった。 これでほとんどの問題が解けた。後は法規に則りながら確実に納めつつ、この1/4円の形をした建物の特長をどう活かすかだった。 車のショールームとしては天井は高くはないし、広くもない。なのでもっと高く広く見せたかった。 鏡を使うことを思いついた。どうせ使うなら円弧を描くように天井を見せられないかと思った。自転車のスポークのように放射状に伸びたライティングダクトがぐるりと一周する、そんな光景が浮かんだ。平均照度はダウンライトで採り、スポットライトで車や展示物に光が当たるようにした。 カフェの厨房の仕切りも鏡のように鏡面にしたかった。 教え子のM君が仲を取り持ってくれ、ある優秀なメーカーがピアノ化粧板を無償で提供してくれた。私の細かな注文にも応じてくれ、近づくと赤い化粧板の表面に「FIAT」と「Alfa Romeo」の無数のロゴが浮かび上がる。 狙っていた大人のエロスと気品が注入された。 イタリアの車を扱うショールームなので、イタリアの文化や匂いも感じられるようにしたかった。車のアクセサリーとは別にイタリアの食材や本、小物などをディスプレイできるコーナーを設けた。 元からあった割石の床はイタリアの路面に似ているのでそのまま用いた。 新しさと古さの混ざった、どこかイタリアらしい雰囲気が立ち上がった。 プレオープンの夜のパーティでは多くの人が集まり楽しんだ。 普段の日は車のショールーム+カフェとして使われるが、こうしたイベントにも十分対応できることがわかった。 松濤の街に根付き、みんなに愛され、永く使われることを願ってやまない。 かずま #
by odysseyofiska
| 2014-03-10 11:11
2014年 01月 07日
兄貴と兄嫁(あねき)に手伝ってもらい、年越しは施設にいるMを連れて伊豆で過ごした。 今年、米寿を迎える要介護4のMと旅するのもそろそろ最期かなと思いながら… Fとは彼の左脳のリハビリも兼ねて熱海によく行った。そして初島を眺めながら日がな一日碁をよく打った。その、時が止まったような瞬間の数々は今から思えば至福の時間だ。 だが、いつも「こわい、こわい」を連発し、風呂に入れるだけでも一大事で、感情をジェットコースターのようにコロコロ変えるMとの旅は、正直私には疲れるものだった。兄貴と姉貴がいなければとても成り立たなかった。 M以外の3人は皆温泉好きだったので、行くのはいつも伊豆か箱根だった。兄貴と姉貴は清水に住んでいるので、東京との中間にあたるそれらの温泉は行くのには都合が良かった。 今年は西伊豆の松崎の先にある小さな民宿に泊まり、珍しく紅白をちゃんと見た。 次の日は長岡のホテルに移動するだけだったので、時間はたっぷりあった。 前から行きたかった「伊豆の長八美術館」に行った。 もちろん、それが石山修武の設計した、ちょっとクレイジーな建物であることは知っていた。最近妙に物分りのいい建物ばかり増えたので、たまにはヤンチャな建物を観て、正月早々元気をもらおうと思ったのだ。 だが実際に観て感動したのは(石山修武の建物も悪くはなかったが、)展示されている長八の作品の方だった。 長八の鏝(こて)で盛られ着彩された作品をきちんと観るのは初めてだったが、すべてが立体的で、当時としては3Dを見るような斬新な感覚だったろう。 入江長八(1815〜1889)は幕末に松崎の貧しい農家に生まれ、小さい頃から左官の親方に弟子入りし、江戸に出て狩野派の絵師から絵を学ぶ一方、彫刻も学んだ。そうした経緯が彼の作品にはすべて活かされている。漆喰壁に鏝で絵を描き、乾く前に彩色する技法は西洋のテンペラ画とも通じる。やり直しのきかない所は正に職人芸だ。 展示作品の中には一宿一飯の礼のために描いた富士の画もあったが、そんなやり取りも微笑ましかった。 外に出て松崎を少しドライブしてもらった。 至る所になまこ壁の建物が残っている。 「伊豆の長八」を育てる土壌が松崎には昔からあったことがよくわかった。 翌日は夕刻に東京に戻るだけだったので、韮山の反射炉と江川邸に行った。 実は昨年の正月もここに来たのだが、元旦であったため、どちらも開いてなかった。 だが、今年は二日だったので、どちらも開いていた。 韮山の反射炉は遠くから見るだけでもおもしろいが間近で見るとさらにおもしろかった。 不思議な相貌をしているが、解説書と古地図を読み解きながら見ると、極めて合理的な形状と機能的な配置でできていることがわかる。 だが私を魅了したのはその「用の美」を超えた何かだ。 必然に追われながらも、それだけに留まらず、さらにそれを超えた、情熱や気概、信念、狂気のようなものさえ感じられる。 幕末にこの反射炉の建設を命じて大砲や砲弾を製造し、西洋の列強に抗しようとした江川太郎左衛門英龍(1801〜1855)という人物に限りない興味を覚えた。 それはこの反射炉に単なる国難を排すための国家事業というより、伊豆の国を賭けたそれ以上のプライドのようなものを感じるからだ。(伊豆の方が江戸より下田に近いのでテンションが高かったのだろうか) この建物は日本の製鉄技術導入の黎明期を象徴する重要な資産として(場所と距離は離れているが)「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補に追加され、世界遺産登録を目指している。 だが、そんなこととは関係なく、自らが強い光を放ち、見る者のイマジネーションを掻き立てる。 私には、過去の遺産ではなく、未来にそそり立つモノリスのように見える。 江川邸は「私の好きな日本建築ベスト10」を選べと言われれば必ず入るだろう。 この主屋の土間くらい豪放磊落野卑で味わい深く、かつ繊細な空間を私は知らない。 できることなら1000時間くらいこの場にいて、この感覚を骨の髄まで染み込ませ覚え込みたいものだ。 似たような柱梁が空中を飛び交う空間に飛騨高山の吉島家がある。だが、あれは真書だ。江川家は行書、もしくは草書だ。しかも暗い室内に微妙な光が天上から降って来る感じは何とも言えない。 この感覚は写真では表せない。やはり体験して五感で感じるしかない。 主屋の他の部屋もやはり簡素で豪放磊落だ。門も井戸も蔵も皆そうだ。 江川家は千年続く名家で、主屋の原型は400年程前に建てられ、江戸時代に何度か大規模な改造、修繕がおこなわれたが、基本的な構造は変わっていない。 幕府直轄地を支配する代官屋敷といえばもっと華美なものを想像しがちだが、この建物はそれとは違う本質的な何かを見る者に教えてくれる。 それは厳しさであり、深さであり、広がり、豊かさである。 私達が便利さと快適さを求めていくうちに失くしてしまった日本固有の骨太な精神空間だ。 この骨太な精神空間があるからこそ江川太郎左衛門英龍は生まれ、韮山の反射炉も生まれた。 何度でも来たい。 そう思う建物だ。 米蔵と武器庫を観て庭に出るとMが破顔一笑どころか満笑の顔をしている。 お侍さんを見つけて子供のように喜んでいるのだ。 その後お侍さんと記念写真を撮って笑いは頂点に達した。 この記憶も明日になれば消えてしまうだろう。 だが、それでよい。毎日が喜びに満ちた日々の連続であるなら。 記憶はすべて私が憶えておくから… かずま #
by odysseyofiska
| 2014-01-07 18:50
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