
父はその後、幸運にも希望していた施設に入所でき、穏やかで充実した人生を始めたかに見えたが、一月もしない内に誤嚥(ごえん)性肺炎を起こし、K病院に入院した。
それまで「誤嚥」という言葉を聞いたこともなかったので、初めはどういう漢字でどういう意味なのかわからなかったが、辞書を引いて、ようやくそれが「誤って気道内に食物が流入してしまうこと」という意味で、ツバメの子供が大きく口を開けて餌を得る光景が浮かぶような字なのだということを知った。残念ながら、その前に「誤」という字が付いて、その光景は暗転するのだが・・・
父がそういう状態になることで初めて気づいたのは、この「誤嚥」という言葉は、現代人の毎日の生活や人生の歩みの中で、あらゆる部分に起こりうる一般的な現象なのだということだ。
新聞やテレビのニュースを見ていると、健康体にも関わらず「誤嚥」を起こした人の記事が多く並ぶ。政治や社会だけでなく、スポーツや教育の現場でも同様だ。
せっかく功なり名を遂げて、後は悠々自適の生活をするだけの人が、「誤嚥」を起こし、晩節を汚す例もよくある。
一体、この誤嚥はどこから来るのだろう。一個人の精神の在り方なのだろうか。それとも社会的な構造の欠陥、もしくは変容なのだろうか。それとも人間という愚かな生き物にまとわりつく性なのだろうか・・・
その後、父は一度は治って退院したが、誤嚥を再発し、入退院を繰り返す日々を送っている。
昨日は父が交通事故に会ってから14年目の日だった。
その間に彼は多くのものを私に与え、伝えた。
たぶん、彼の、目に見える生命はそれほど長くはないだろうけれど、
目に見えない生命はこれからも永く私の中で生き続けるだろう。
かずま