
世田谷美術館で「祈り・藤原新也」展を観た。
藤原新也は写真家であると共に、旅人、作家、批評家でもあり、私や私たちの世代に影響を与えた人間の一人だ。その彼が70代後半を迎えて、その集大成とも呼べる展覧会を、生まれた北九州、そして東京で行った。
藤原新也の写真を初めて見たのは、彼を有名にした処女作のアサヒグラフの「インド放浪」(’72)ではなく、それから6年後にパルコから出版された「七彩夢幻」(’78 アートディレクターは石岡瑛子)だ。この北インドとモロッコの幻想的で強烈な色彩の女性と衣服の万華鏡に私の心は奪われた。
次に藤原新也の名を知ったのはエッセイ集「東京漂流」(’83)で、この本で初めて彼の文章に触れ、藤原新也は文明や社会に対し鋭い直感力のある批評家なのだと知った。
そして、写真にキャッチフレーズのような短文を添えた「メメント・モリ」(’83)で、彼の写真+文による表現者としての資質は花開いた。
展覧会でもそれは十分に堪能できる。
私は当初、この展覧会のタイトルに「祈り」という言葉が添えられることに違和感を覚えた。
藤原新也のように、放浪の旅や激変する社会の中から独自の思想や言葉を紡いできた人間が、「祈り」という誰もが使う従順な言葉で自己の仕事を総括することへの違和感だが、会場のはじめの方に次のような言葉があった。
「・・・・・・・・・
わたしが世界放浪の旅に出た今から半世紀前
世界はまだのどかだった。
自然と共生した人間生活の息吹が残っていた。
幸いにもわたしはそんな日々を旅することができた。
そして一心に写真を撮り、言葉を発した。
ときには死の危険を冒してさえ
その世界に分け入ったのは、
ひょっとすると目の前の世界が
やがて失われるのではないかという
危機感と予感があったからかもしれない。
その意味において
わたしにとって目の前の世界を写真に撮り
言葉に表すことは
”祈り”に近いものではなかったかと思う。」
この言葉は、混迷する今の時代から振り返ると予見的であり、腑に落ちた。
新しい発見があったわけではない。
だが、昔の自分を思い返しながら、充実した時を過ごした。
かずま