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2020年 09月 21日
何にもつよい興味をもたないことは 不幸なことだ ただ自らの内部を 眼を閉じて のぞきこんでいる。 何にも興味をもたなかったきみが ある日 ゴヤのファースト・ネームが知りたくて 隣の部屋まで駈けていた。 飯島耕一の詩集「ゴヤのファースト・ネームは」('74)を久しぶりに読んだ。 この詩集は大学時代に初めて読んだが、飯島耕一の詩集の中では一番平明な言葉で書かれていて、言葉がすっと入ってきた。特に表題作は好きで、何度も読んだ。 この表題作は16篇の詩から成り、数年前の恩師とのスペイン旅行と現在とが重層的に語られている。もっと詳しく言うと、飯島耕一は旧制高校のドイツ語教師の恩師と1970年にスペインを旅行をし、帰国後、三島由紀夫の割腹自殺事件や恩師の急逝などで精神的に鬱になり、詩が書けなくなる。 この詩は、そこから回復する様子が書かれていて、読んでいて、どこか爽やかな感動がある。 山が近づいた シェラネバダ ときみは言った。 また山が近づいた シェラネバダ と彼が言った。 しかしシェラネバダはなかなか来なかった。 そしてとうとう シェラネバダがやって来た。 時間はあのとき 大きく弧を描いて、 何十分かずつの塊りで経って行った 一日は ゆるやかな 数呼吸でめぐって行った。 恩師との列車の中での会話がどこか微笑ましく、楽しい記憶となって詩人を勇気づける。 生きるとは ゴヤのファースト・ネームを 知りたいと思うことだ。 ゴヤのロス・カプリチョスや 「聾の家」を 見たいと思うことだ。 見ることを拒否する病いから 一歩一歩 癒えて行く、 この感覚だ。 (何だかサフラン入りの サフラン色した皿なんかが眼にうつって……) その入口に ゴヤの ファースト・ネームがあった。 ここには既に答えが暗示されている。(ゴヤの名前は、フランシスコ・デ・ゴヤ) だが、詩人の関心はさらに先へ進んでいく。 いまは 一年間絵筆をとらず 「恐ろしい性質」の病気のなかにあった ゴヤのことに関心がある。 「煮えたぎる」ほどの血をもったゴヤが ひそかに 身をかくしていた一七九二年九月から、 九三年七月までの 空白に。 ゴヤと自分との似た関係に思いを馳せながら、多くの言葉が費やされ、自分を少しずつ取り戻していく。 そして、最後に詩はこんな言葉で終わる。 ゴヤのビュランが 傷つけて行った 時間を、 きみは 一枚一枚 めくって行った。 * * * 12年前、Fが亡くなった時、私はすべてのことをやりきった思いがあった。 だが、今年四月、Mが亡くなった時は全くそれがなかった。 それまでは毎週施設に通ってボディランゲージで会話をし、その度に回復するのを肌で感じてきた。だが、コロナ騒ぎで2ヶ月半会えない間にMは体力と気力を失ってしまった。連絡が来て、Mに会えたのは最後の3日間、合計1時間だけだった。 呆然とした。 全てが途中で断ち切られた思いは葬式の後も抜けず、日を追うごとに喪失感が深まっていった。遺品を整理しててもすぐに手が止まり、何もしたくない日が続いた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ そんな時に再びこの詩集を手にした。 飯島耕一やゴヤと私の心が重なっていった。 私も、ビュランが傷つけて行った時間を、一枚一枚めくりながら、 自分を見つめなおし、再び前へ歩いていきたい。 かずま
by odysseyofiska
| 2020-09-21 19:37
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