年末、墓参りができなかったので、正月早々墓参りをした。
自分の設計したお墓だから、それなりにいろんなことはわかっている。
タイルは目地が汚れるから、全部石にしたら?と言われたが、汚れることも含め、タイルにこだわった。飛んできた枯葉や枯枝(多磨霊園は日本最初の公園墓地で、草木が多い)を取り除き、近くの水場で汲んできた水でタイルの汚れをゴシゴシ洗い落としながら、Fと久しぶりの会話をする。その時間が尊いのだ。
また、メンテナンスフリーにしたら、(心が弱いので)滅多に来なくなるかもしれない。適度に世話しなければならないつくり方が大切なのだ。
もっとも、私の食卓のテーブルには今もFの写真が飾られ、毎朝会話をしている。
だからお墓に来なくとも良いのだが、だが、お墓の気分は特別だ。
やはり霊が棲んでるのかもしれない。
変な話だが、私は墓地が好きだ。
鎮んだ空の下で誰かとゆっくり対話をしていると心が休まる。
それはもしかしたら、生まれた長崎が(原爆で多くの人が亡くなったので)墓地が多く、山裾に見える墓地の風景に慣れ親しんで育ったせいかもしれない。
実際、当時の長崎の子たちは墓地でよく遊んだ。私もそうだし、兄には武勇伝さえ残っている。
外国の墓地にも思い出深いものが幾つかある。
ストックホルムにあるアスプルンドの設計した墓地では半日を過ごした。
森の中を歩いていると、突然「森の礼拝堂」が出てきて、(中には入れなかったが、)ドアの窓から見える白いドームの天井はアブストラクトで美しく、上から降ってくる光はとても神秘的だった。
ローマやパリでも似たような経験をしたが、中でも特別だったのは、ベルリン郊外のオリンピックスタジアム近くの墓地だ。
その日は曇りで、鎮んだ空の下、廃墟のようなスタジアム(今のように改装される前の、1936年ヒットラー政権下のオリンピック当時のままだった)を見て、いろんなことに思いを巡らしながら、近くの森に引き込まれるように入った。
前日の雨で湿気を帯びた冷たい森の中を歩いていると綺麗な芝生が現れ、そこに黒い墓石が将棋の駒のように並んでいる。
私はそれを眺めながら、ベルリンの都市(まち)を、そして歴史を肌身で感じた。
小一時間、森の中を歩いた後には、頭も身体もすっきりしていた。
Fの墓参りをした後、ヨシザカの墓参りをした。
ついで参りは良くないと言われるが、私は最初から二人の墓参りをすることにしていたので、ついでではない。
だいたい、そんなチンケなことをヨシザカが言うわけがない。
ヨシザカの墓に行くと、いつもいきなり、あの声が聞こえてきて、対話が始まる。
それは特別な時間で、それまで曖昧にしてきたことがストーンと決まり、腑に落ちる。師というものはそういうものだ。
尊敬する二人と新年早々話ができて、良かった。
かずま