
今まで何度も読むのをトライして挫折した小説に「失われた時を求めて」がある。
第一篇の「スワン家の方へ」のマドレーヌを紅茶に浸して食べることで昔の記憶を思い出す辺りまではまだいい。それから先が進まない。何度読んでも同じことの繰り返しのように感じられ、眠くなる。我慢して、我慢して、なんとか第二篇「花咲く乙女たちのかげに」まで辿り着く。だが、ここから先へはどうしても進まない・・・第七篇「見出された時」まで読み終わるのは、私にとってはチョモランマに登ることより難しいかもしれない。
同じように挫折した小説に「ユリシーズ」がある。
これは眠くなるだけでなく、頭も痛くなる。主人公ブルームが出て来る前のスティーブンの話だけでもうダメだ。内面の意識の流れが次から次に描かれ、ヨーロッパ文化に通底する教養が試される。だが、所詮私程度の教養では太刀打ちできない。飛ばし読みして各章の頭だけ読むとそれぞれが異なる文体で書かれていて、凄い実験小説だということはよくわかる。(その凄いなという気持ちだけでヨーロッパを放浪してた頃ダブリンに行き、「ユリシーズ」の舞台を歩いたことがある。その時は将来自分がつくる事務所にまさかユリシーズ=オデッセイアの名を使うことになるとは思ってもいなかった)
結局、20世紀文学を代表するプルーストもジョイスも、きちんと読破できていない。
にもかかわらず、私は記憶の彷徨や意識の流れというものに強く惹かれる。
記憶はいつも曖昧模糊としている。
だが、ある時、それは突然鮮明になり、甦る。
時には肥大し、実際にあったこと以上に大きくなって、その人を飲み込む。
意識の流れも時には神経を強く刺激し、その人の人格を再構成する。
意識と記憶が人間をつくっていると言っても過言ではない。
これまで多くの人に出会ってきた。そのうちの何人かは既にこの世にいない。
だが、私の中にはいる。
記憶の中に甦り、意識を常に刺激する。
深い感謝しかない。
長い長い坂道を上って来たように思う。小さい頃から。
だが、それはただの曲がりくねった道だったのかもしれない。
「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」と言った詩人がいた。
そんな大それた道ではないが、私の後ろにも雪の中の小さな足跡は残った。
白いページの中に新しい言葉を書き加えていく。
その言葉が稚拙であったり、つまらなかったとしても、それは私の言葉であり、私の生き様だ。たとえどんなにヘタクソな言葉であっても、誰の真似をすることなく自分自身の言葉で語り、つくっていきたい。
プルーストやジョイスの1/1000くらいに過ぎなくても・・・
今日、私は新しい白いページを開いた。
かずま