昨日、第2回目の「吉阪隆正賞」の授賞式と記念シンポジウムが白山であった。
受賞者は坂口恭平氏と治郎丸慶子氏で、二人の話とシンポジウムを聴きながらいろいろなことを考えた。
坂口恭平氏は早稲田の建築学科の出身だが、いわゆる「建築」や「都市」には批判的で、路上生活者の視点から暮しの原点を問い直し、「0円ハウス」「0センター」「モバイルハウス」「独立国家」・・・と異議申し立ての活動を挑発的におこなっている。
私のように学生時代に山谷や釜ヶ崎にシンパシーを感じ、バラックばかり追いかけていた人間には極めて共感を覚える内容であり、選出だ。
治郎丸慶子氏は高蔵寺ニュータウンのまちづくりNPOの主宰者だが、いわゆる一般的なNPOの枠組みを遥かに超えて、圧倒的な生活者としてのバイタリティと知恵、行動力、愛すべき人柄、愛嬌、類い稀な戦略でまわりのすべての人を巻き込み、ベッドタウンからライフタウンへ再生する活動をおこなっている。
真に吉阪隆正賞を主催する生活学会の本道を行くような内容で、地べたを這うような感覚は吉阪好みだ。
氏がこの活動に飛び込んだ切っ掛けは、第三子がダウン症で生まれ、市に相談に行ったら梨の礫で、だったら自分でつくるしかないと思い、お金がなかったので民家再生をみんなを巻き込んでタダでおこない、そこを拠点にどんどん拡げて行ったらこうなったというのだが、その話は爆笑の渦で、20分という短い時間ではなく2時間くらい聴いていたかった。
そうしたら実践的な方法論はすべて学べただろう。
それくらい貴重でためになる面白い話だった。
シンポジウムでは2人の話を元に各審査委員の意見や感想が繰り広げられた。
その内の何人かや会場から坂口氏の選出理由への質問が飛んだ。
つまり、彼のやっていることはマスメディア的で、頭でっかちで、アート的で、流動的で、評価を下すに至っていないのではないかということだった。
だが、だからこそ吉阪隆正賞に相応しいと私は思った。
ヨシザカは若い(無鉄砲なくらい)元気な人をとても愛した。
確立したものより不確定な、だが可能性を秘めたものを強く愛した。
人の真似をせず、オリジナルな活動をしようとする人間を強く擁護し、支持した。
もし、彼が生きていたなら坂口恭平は紛れも無くヨシザカから深く愛されたに違いない。
また、シンポジウムで何人かが「吉阪隆正賞は成長する賞だ」と言っていた。
確かにそうなのだが、私は「囲碁の布石に似ている」と感じた(というか確信した)。
2年毎に、社会で起きた出来事や事件に対し、ヨシザカ的な視点から石を打って行く。
相手(社会)が打った石に対し、その意味を深く読み取りながら、さらにその上を行く手を縦横に打ち回していく。
第1回目の田中泯氏といい、今回の2人といい、すべて異なる素晴らしい手だ。
10年間で社会との間にどんな布石が打たれ残されるのか
とても楽しみだ。
かずま