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2012年 07月 29日
飯岡に行った。 飯岡は千葉の東、銚子の隣町の旭市にあり、3.11の津波で13名が亡くなり、2名が未だ行方不明の町だ。東京から高速バスで2時間で行ける距離まで津波が押し寄せ、人命を奪ったことに改めて恐怖を感じる。 飯岡に行ったのは、そこでおこなわれる復興プロジェクトのコンペの敷地を視るためだ。建築家なら誰しもが今回の震災で無力感を感じ、自分に何ができるのかを考えるはずだ。(私もその一人だ) だが、私にはもう一つこの場所と積極的に関わりたい理由があった。 それはA君がこの旭市で仕事をしているからだ。 震災当日は旭市でも死者が出たことをその夜知った。 急いでA君の携帯にメイルを送った。が、返事は無かった。 翌朝A君からメイルがあり、前日のことが生々しく綴られていた。 とにかくホッとした。 A君は私の教え子で元所員だ。(だが、今は立場が逆転していろいろ教えられている) 春の花見や折々の催しにも必ず車を飛ばしてやって来てくれ、そのまま事務所に泊まったり、深い交流が未だに続いている。 こう書くとまるで初めから仲が良かったようだが、本当はその逆で、出会いは最悪だった。 3年生の第2課題だった。グループで建築学会コンペの「21世紀の集住体」を提出するという課題で、提出間際のエスキスチェックの日だった。 私のやり方は他の先生とは少し違っていて、チェックを受ける者が皆の前に出て自分の案を発表し、それに対して他の者が質問をおこない、学生同士で意見交換を繰り返した末に私がコメントしてワンセットが終わる。それを人数分繰り返しながら、他の案も見聞きして自分の案にフィードバックしてもらうというものだった。 A君達のグループの番が来た。 「今日は僕達のグループは何も発表するものはありません」といきなり彼が言った。 「前のグループだってあんまり進んでなかったけど発表してくれたじゃない。君たちもみんなのために何かヒントになるようなことを言ってくれない?」と私は懇願した。すると、 「ふ〜ん、あの程度でいいのか〜」と小さな声で彼が呟いた。 友達を馬鹿にした それは私が最も忌み嫌うことだった。 途端に私はキレた。大学で教え始めて、初めてキレた。 「お前みたいな奴に建築を教えるために俺は往復4時間かけてここに来てるわけじゃねェんだ!お前なんかとっとと辞めちまェ!!」 こんな感じの早口の言葉で私は数分間キレまくった。 そんな姿を見たことのない学生達は皆びっくりしていた。彼はじっと黙っていた。 結局、この課題で彼のグループに(案は悪くなかったので)私はB+を点けた。 だが、金輪際こいつとは関わりたくないと思った。 彼は彼で、「ウチの大学にひでェ〜非常勤講師が一人いる」とみんなに言いふらし、私達の仲は絶交状態になった。 翌年の冬、卒業設計のシーズンになった。 4年生は学校のアトリエに籠り、徹夜しながら模型や図面の制作に没頭していた。 当時3年生を教えていた私は、授業が終わると必ずこのアトリエに立ち寄り、旧知の面々にアドバイスを与えて帰るのが習わしだった。 彼も入口の真ん前で数人の下級生を従えながら制作に勤しんでいた。 その前を素通りしながら(意外と頑張ってるな)と目だけはチェックしていた。 卒計の採点の日が来た。 一周して今年の全体のレベルをチェックした。 もう一周して、今度は書かれている全ての文字を読みながら一案一案慎重にチェックした。さらにもう一周して、自分の感覚に正直に採点表に点数を入れた。 最後にもう一周した。 何回やっても(くやしいけれど)彼のが一番いいと思った。 卒計の1位に押した。 採点表を出す時に外部から来ている建築家のSさんやHさんも1位に押してるのを知った。 彼が卒計賞を貰うことを確信した。 ところがそうはならなかった。 講評会の日の彼の発表も(相変わらず生意気な所は変わっていなかったが)悪くはなかった。 なのに4位だった。おまけに3位までは接戦だったという理由で卒計賞は3つ出た。 ガッカリする彼の後ろ姿が目に入った。仕様がないので、背中をバシーンと叩き、 「こんなわけのわからない先コウが採点するからこういうことになっちまうんだけど、お前はいいものをつくったんだから1位だと思っておけ!」 と言った。すると、彼が 「先生、僕を誰だか知ってますか?」と訊いた。 「あたりまえだ!俺が辞めちまェ!!って言った奴だよ」 「じゃ、今日から仲直りしましょう」 仲直り?なんて子供みたいにカワイイことを言う奴じゃないか! そして本当に私達は仲直りをした。 その夜はとても気持ちの良い夜で、私は翌朝まで学生達と飲み明かした。もちろん彼も一緒だった。 A君はその後、設計事務所に就職し、順風満帆の道を歩むと思いきや、半年もしないうちにそこが倒産し、都市計画事務所でアルバイトする羽目になった。 そして夜な夜な私の事務所に電話をかけてきて出入りするようになった。 初めは「俺は忙しいんだ」と言ってわざと邪険に扱っていた。 だが、A君はA君で私を無視し、事務所の隅っこに転がっている紙切れの束(それは私がクロスのサンプルを30枚程小さく切って貼り、水や醤油をかけて汚れの変化を調べた残骸だった)や黒くなった断熱パネル(内側の発泡ポリスチレンフォームに火をつけて消火の際に有毒ガスが出るか調べた)や傷だらけのフローリング(トンカチで叩いてどれくらい傷が付くのか調べた)を手に取っては、 「ふ〜ん、こんな風にして設計事務所って設計するんだ〜」と独り言を言っていた。 私はその好奇心の強さに惹かれて、 「今、横浜で設計している小さなインフォメーションセンターの現場をやってみるか?」と尋ねた。 するとすぐに「やりたい!」と返事が返って来た。建築に飢えていたのだ。 でも、内心、卒業してまだ一年も経たないのだから現場は無理だろうと思い、 「大した金は払えないから週に2回だけ行けばいいよ。後は俺がやるから」と言った。 現場が始まった。途端に目の前が真っ暗になる事件が起きた。 請け負った工務店が丸投げをしたのだ。上棟式の日にそれがわかった。 下請けの工務店の大工はまるでやる気が無い。 私は事務所に戻ってA君に、 「こうなったら、俺たちが頑張って現場を動かして行くしかない!わかったか?!」と言った。 「わかりました!」とすぐに彼は答えた。 だが、内心、心配で、A君が現場に行く日は後からそっと追いかけ、丘の上から様子を見ていた。 杞憂だった。 職人達に混じって材料の準備や掃除などまめに働く彼の姿に感化されて大工が生き生きと働くようになった。ペンキ屋もガラス屋も板金屋も皆生き生きと働いていた。 凄いな!と思った。 ある日曜の夜、事務所に行ったら、A君が黙々と図面を描いていた。 「どうしたんだ?」と訊いたら、「明日朝、大工に説明したいことがあって、今日中に仕上げないと」と、また黙々と描き始めた。 A君はやがてバイトを辞め、最後の方は毎日現場に通った。 そうしろと私が言ったのではない。A君が自らそうしたのだ。 私は建築家が生まれる瞬間に立ち会っているような、そんな気がした。 こうして誇りに思える建物が完成した。 その後、A君は地元の銚子へ戻り、いくつかの大きなプロジェクトに関わったあげく、ブルガリアへ渡り、向こうで何年か仕事をした。 生意気な点や放浪癖のある点、それでいて生まれ故郷を愛する点など、私とどこか似ている。 ただ私と違って、A君の場合はこうした性格はその氏素性に寄る所が大きい。 それを肌身で感じたのは彼の父上が亡くなり、その通夜に参列した時だった。 彼の実家は利根川が太平洋へ通じる寸前にある町の旧家(地主)で、おおらかで雄大な造りの日本家屋だった。 その日は広間の障子は全て取り払われ、巨大な宴席が設えられ、近所の人が総出で手伝いに来て、壮観だった。 焼香を済ませた後、ひんやりした風に吹かれながらその空間で多くの人と取れ立ての魚や酒を味わっていると、(父君には悪いが)爽快な気分になった。 久しぶりに旧家の日本家屋の贅沢さを味わった。 こうした環境で彼は生まれ育ったのだ。しかも9人兄弟の末っ子で。 小さい頃から生意気だったのは当然かもしれない。 また、そうした旧家のしきたりから自由になりたいと思ったのも当然かもしれない。 彼の部屋にはあの卒計の模型が飾ってあった。敷地は屏風ヶ浦だ。 この東洋のドーバーも誇りだろうし、利根川、犬吠埼、銚子漁港、人情と、彼が愛し誇りにしているものがこの町にはたくさんある。 飯岡の敷地を一通り見て歩いた後、待ち合わせて久しぶりに夜二人で飲んだ。 A君は数年前から旭市のハウスメーカーに勤め、今年になってそこの幹部になった。 飲んで話をするまでは、もう彼は創造的な仕事から離れてしまうのだろうか、という思いが無いわけではなかった。 だが、またしてもそれは杞憂だった。 相変わらずA君は、あの横浜の現場の時のように、内部からやる気を起こさせ、変えて行こうと奮闘していた。そして、それはイスカにいた時に学んだ。より良いものをつくるためにいつも最高の努力をすることを学んだ、と言った。 少しジーンと来た。あの頃を思い出しながら、逆に私が教えられているような気がした。 最終の東京行きの高速バスに乗ると、外は霧で霞んでいた。 ヤスタカ、俺たちはまだ何もつくっていないし、何もいいことをしていない だから死んではいけない 生きてるうちに必ずいいものをつくろう、そしていいことをしよう また、一緒に遊ぼう かずま
by odysseyofiska
| 2012-07-29 14:08
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