本を買う時(内容が分かっていて本屋に行けない時はwebでも買うが、そうでない時は)できるだけ本屋に行って買うようにしている。
私は図書館と同じくらい本屋が好きだ。
そこで本の背表紙を眺めながら、また手に取ってページをめくりながら、あれこれと勝手な想像を働かせている時間が好きだ。
そういうことはwebでは起こらない。
また、本は一瞬にして多くのことを語る。
装釘や目次、字の並び方、絵や写真のレイアウト、紙質、重さなどでも、著者の伝えたいことの重さや編者の拘りを瞬時に感じ取ることができる。
読むべきか読まないべきか、読むにしてもきちんと座って読む本なのか、ソファに寝転んで読む本なのかを五感で瞬時に判断することができる。
そういうことはwebでは起こらない。
また、本は読んでいる最中もよそ見や回り道を許してくれる。
ふと出て来る連想や相反するものに興じながら再び元の地点に戻ることを許してくれる。
その時、よそ見や回り道はさらに豊かな何かに変わって帰って来る。
同様のことは新聞でも言える。
私はwebでニュースを見ることはあるが、それは目が単なる情報を得ているに過ぎない。
新聞は違う。
新聞は多くのページと話題の中から自分の興味に基づいて選択しながら読んでいる。
そして読みながら自分自身の中で反射的に批判や共感をない交ぜ、反芻し、オリジナルを作り出す作業を平行しておこなっている。
時間はかかるがそれに見合った豊かな何かが得られる。
大学で教えていた頃、エスキスを見せて?と尋ねると、多くの生徒がwebで調べた大量の資料を並べ、それをあたかも自分の意見のように語り、満足していた。
「で、君の意見は?君の絵はどれなの?」
と尋ねると、もう説明しただろう?と怪訝な顔をする。
冗談じゃねぇ! こんな所に創造があるわけがねぇ!
「調べる」と「感じる」「考える」は別なんだ!!
webによりどんどん何かが退化して行くのを感じる。
徳岡神泉に「刈田」という画がある。
田んぼの稲を刈り取った後の風景で、カメラで写せばただの何でもない風景だ。
だが、神泉の澄み切った目と心で見て感じたものが極限にまで単純化されて表現された画は、とても豊かで奥深い。
日本画の最高傑作の一つではないかと思う。
無心で感じ、五感で考える動物になりたい。
かずま