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2011年 11月 29日
![]() 今年の初めに亡くなったHさんの想い出集がつくられることになった。 Hさんは私の菊竹事務所時代のチーフで尊敬する人だった。 1980年4月、私は菊竹事務所に入所した。 最初は(先に所員になっていた同い年の)Oさんの下でNIRAの海上都市の本作りを手伝わされた。これが嫌で嫌でしょうがなかった。300枚のコピーを取る雑用や国会図書館に使い走りに行かされる度に、俺はこんなことをするために菊竹事務所に来たのではない、と辞めることを真剣に考え始めた。 ちょうどその頃、四谷から池袋のサンシャインに事務所が移転する事件が起きた。 大きなワンルームになったので全員設計をやろうということになり、毎回所内でコンペがおこなわれた。どういうわけか3回続けて(ダミー案だったが)選ばれた。 すると「もう君はOさんの下ではなく、Hさんのチームで設計をやりなさい」と言われた。 こうして私はやっとHさんの下で設計を始めることができた。そしてそれはとてもラッキーだった。 Hさんは人にあれこれ指示する人ではなく、(言い方は悪いが)放任主義というか、間違えがない限りはその人の自主性を尊重して自由にやらせてくれる人だった。おかげで私は伸び伸びと自分の考えを言い、行うことができた。そしていつも「おもしろいね」と言って上手に乗せてくれた。おかげで私はますます建築にのめり込んで行った。 Hさんはあまり形式主義的な人ではなく、あくまでも実践的で、現実的に物事を解決し、前に進ませることを好んだ。よく原寸で図面を描いてはそこらにある物で模型を作り、それを身体で確かめながら納得の上進めていた。私もそれを真似した。 おもしろい話がある。 「A1のトレペで図面を描いてて、途中で下に10cmずらせばきれいにA1にレイアウトできることがわかった時、どうする?」と誰かが訊いた。するとHさんは、 「上の10cmを切って、それを下に継ぎ足し、そのまま描き続ける」と言った。 継ぎ目のメンテレなんか気にもしない。それより当然中身だろ?という感じだった。 Hさんはいつも時間の使い方が上手で、これ以上悩んでも無駄という時はサッと切り上げ、作業に移り、時間内で終えることを常とした。それができずに遅くまで仕事する私に「がんばってるね」とよく声を掛けてくれたが、それは励ましと同時に「プロはもう少し時間を考えて使わなければ」と暗黙に言ってるようだった。 そういうHさんでも粘る時はよく粘り、福岡市庁舎のエントランス部分のプレゼンの時は、別案の模型を終電まで一緒に作り、翌朝一番の飛行機でそれを持って行った。 その時の、疲労感の中にも安堵と達成感に満ちたHさんの笑顔は今でもよく覚えている。 Hさんと私は帰る方向が同じだったので、よく一緒に帰った。 その頃から自然エネルギーの話や自然農法の話はよくしていた。後年、それを本格的に行うことになる萌芽は既にこの時あった。だから流行やブームで始めたのではない。 私が一番驚いたのは、あの優しい笑顔で「実は僕は学生時代、学生運動を少しやってたんだ」と語った時だ。でも、それをどこまできちんと理解してやってたかはわからない。家のことや社会に対して懐疑的だったのがそのまま単純に行動に表れただけかもしれない、と率直に語っていた。私はHさんの中にある正義感や社会への強い関心がそうさせたのだと思った。そしてそれはその後、Hさんが成し遂げたこととどこかでつながっている。 1983年12月、私は建築を続けて行くことに行き詰まりを感じ、菊竹事務所を退所した。 そしてヨーロッパへ放浪の旅に出た。Hさんとの関係はこれで終わりになるはずだった。 だが、そうはならなかった。戻って来た後も、いつも手紙や電話、そしてオープンハウスで温かい励ましとあの笑顔をたくさんもらった。私にとってHさんは兄のような存在だった。 いつか天国のHさんに「ブッちゃん、凄いね!」と褒められるような、そんな作品をつくって恩返しがしたい。 かずま
by odysseyofiska
| 2011-11-29 17:45
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