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2015年 01月 06日
年越しは兄貴や姉貴(兄嫁)とMを連れて伊豆で過ごした。 毎年恒例の温泉旅行で、本来は高齢のMの慰安のはずが、今年はラグビーで痛めて以来40年続く私の脚腰の痛みが悪化し、有岡城の幽閉から解放され有馬温泉で療養した黒田官兵衛よろしく、毎日場所を変えながら伊豆の各地で湯治に専念した。その間、戸田(へだ)の美しい海や快晴の冨士を見ながらそれらに酔いしれたが、頭の中にはいつも一人の男の記憶があり、消えなかった。 発端はその旅の数日前の酒の席だった。吉阪研の後輩のJ君に誘われ、都市デザインとダムダンの主宰する忘年会に出席した。先輩のTさんや後輩達、馴染みの気が置けない面々と久しぶりに顔を合わせ、昔に戻ったようにリラックスしながら酒を飲んだ。 ふと窓際を見ると、何だか見覚えのある顔写真が数枚フォトフレイムに納められている。 じっと見入っていると、 「鈴木さんですよ」と誰かが言う。 「鈴木隆行?」と訊くと、「そうです。もう亡くなりました」と言う。 その言葉にしばらく絶句した。 鈴木隆行と私は3回しか会ったことがない。だが、初めて会った時から意気投合し、まるで昔からの友のように話をした。 仲を取り持ってくれたのは親友のT君で、「みぞぶちさんなら鈴木と気が合うと思う」と言って、四谷の荒木町で会った。バブルが弾け、建つには建ったが誰も住まない(住めない)億ションが墓碑銘のように立っていた頃で、それを横目に地上げで荒れた荒木町界隈や花街辺りを一緒に歩き回り、酒を飲みながらいろいろ話をした。(その当時、隆行やT君らは荒木町の復活と活性化に奔走しつつ、利権ばかり追い求める人々と戦っていた) 話をしていくうちに、お互い香港の九龍城が好きで、私は81年の夏に、隆行はそれから12年後の取り壊しの時に潜入し、本まで出していることがわかった。 じゃ、次回は九龍城のスライド講演会を二人でやろうということになった。 2回目はそのスライド講演会の席だった。 場所も日時も正確には思い出せないが、前半を私がやり、後半を隆行がやって、その後に質問を受け付ける、今から考えるととても真面目な2時間半くらいの講演会だった。 話し手だけが妙に熱くて、聴き手はどこか置いてきぼりにされたような不思議な講演会だった。 3回目はそれから1ヶ月後くらいに、講演会の打ち上げと称してみんなで新宿の歌舞伎町に集まり、1次会、2次会、3次会・・・と延々と飲んだ。途中、夜中に台南担仔麺 (たいなんたーみー)で腹ごしらえをして映画「新宿鮫」のロケに使われた怪しい裏路地の店に行ったが休みで、結局ゴールデン街に行って朝まで飲み明かした。
結局これが隆行との最期となった。 その後、ある雑誌に書いたレポートが近況報告のように送られてきて、荒木町で八百屋をやってるのか?と驚いたが、隆行らしい破天荒さが文面から溢れていておもしろかった。 初めて会った時から隆行は無頼派だと思った。坂口安吾や織田作之助、檀一雄らと同じ気質、自由奔放さを持った、おもしろい男だと思った。 こういう人間は建築家には珍しい。もし彼がヨシザカと出会っていたなら、ヨシザカからひどく気に入られたに違いない。もちろん、私は気に入った。 だが、こういう人間は建築の世界だけでなく一般社会からも受け入れられにくい。 隆行はそれにひどく悩み、かつ自身の性癖から、デザインよりも社会的な活動に乗り出して行き、挙句の果てはアウトロー的な生き方に染まって行った。 もし彼にもう少し狡猾さがあって、メディアとの結託が上手かったなら、逆にヒーローになり得たかもしれないが、ある意味純粋過ぎる心を持っていたので、それは無理だったろう。 最期は人知れず死んだという。 隆行がダムダン在籍中に現場をやった伊豆の長八美術館は昨年見た。 この建物の異常なおもしろさは、親分の石山修武だけでなくそれを実現した鈴木隆行の功績でもあると思う。 毎回松崎に通いながら彼もこの光り輝く海を眺めたに違いない。 その時、彼が何を思い、何を考えたのか・・・ 今となってはそれを聞く手だてがない。 残念だ。 かずま #
by odysseyofiska
| 2015-01-06 22:58
2014年 12月 29日
旅をするのが好きだ。 酒を飲む時と似てて、嘘偽りや建前から解放され、本来の自分に戻れるような、 そんな気が自然としてくる。 じゃ、いつ頃からそういう風になり始めたのかを考えてみると、やはり社会との接点、 高校生や大学生、社会人として生き始めた頃から始まった習癖のように思う。 それまでは生きてること自体が本来の自分で、何の矛盾も感じなかった。 私は社会との折り合いをつけるのがヘタな人間だ。 だから17才の頃から常にその軋轢と戦ってきた。 そしてそれに疲れる度に、旅に出たり、酒を飲んだりした。 そして再び本来の自分と出会い、元に戻ることができた。 もし旅と酒が(そして私の愛するJazzとCinemaが)無ければ、とっくに私の人生は終わっていただろう。 人は誰でも心の中に自分だけの旅の物語を持っている。 そしてそれは実際の旅だけで終わらず、常に心の中で反芻され増幅され、 毎日の生活の中で新たな旅が生まれている。 仕事場にいても、家庭にいても、喫茶店でボーッとしていても、 常に旅は始まっている。 30年前、若者はヨーロッパを放浪し、いろんな街やいろんな人と出逢った。 その街の地形や風土、歴史に魅せられ、人に魅せられ、若者は素直にそれを描いた。 その時、彼が本来の自分であったことは間違いない。 それから30年が経ち、若者は年をとった。 はたして彼が本来の自分のままでいるのか、それとも別人になってしまったのか・・・ それを知るため、もう一度、旅に出ようか・・・ かずま #
by odysseyofiska
| 2014-12-29 22:01
2014年 12月 10日
建築家になろうと思った人で絵を描くことが嫌いな人はいないと思う。 じゃあ、なぜ絵が好きになったのか?と訊かれると、(人それぞれ答えは違うが、)私の場合は単なる偶然だ。 私には4つ半離れた兄がいて、小さい頃絵を習っていた。毎回、近所の子達を引き連れ、小さな山を超え、岬の先の小高い丘の上にある廃屋のような2階建ての校舎に通っていた。 その間、私は一人で外で、航空母艦のカタパルトのような石畳の上で遊んでいたが、ある時とても寂しくなり、入ってはいけないと言われていた建物の2階に兄を探しにいった。 絵の先生が私に気づき、あたたかく迎えてくれた。そして何か描いてごらんと言った。 兄が縦に罫線の入った帳面(その頃はノートとは言わなかった)を1枚ちぎってくれ、鉛筆を貸してくれた。 来る時の山越えの様子を、兄、私、じょいっちゃん、しんちゃん、◯△ちゃん、樹々や緑、曲がりくねった道、雲を、無心で描いた。 するとその絵を見て先生が、「この子の絵が一番元気があっていい」と言い、壁の一番上に画鋲で貼ってくれた。私にはどこがいいのかさっぱりわからなかった・・・ たぶん、これが記憶の中に出て来る絵との最初の出会いで、4、5才頃だと思う。 兄は絵よりも外で遊ぶ方が好きだったので、クレヨンはそのうち私の専属になった。 おまけに(FがM重工のエンジニアだったので、)家には用済みの青焼きが山とあった。 その裏の白い面に毎日、夢中で絵を描いた。描くのはいつも(長崎駅で初めて見て乗って感動した)蒸気機関車で、だから黒いクレヨンばかりが無くなった。 幼稚園に入った時、絵が上手だと先生に言われたが、本当はただ無心で描くという癖がついてて、それが他の子より強かっただけだ。 小学校に入った時、初めて挫折を味わった。 それまで水彩で描いたことがなかったので、いつものように凄い勢いで夢中で描いたら、乾ききる前に色が混ざり合い、何の絵だかわからなくなってしまった。 確か「狼少年」の話のワンシーンだったと思うが、出来上がった絵はカンディンスキーの抽象画のように混沌としていた。 だがそのうちコツを掴み、しかもクレヨンで塗った部分は水彩は弾くという事実を知り、再び好きに描けるようになった。 Fの転勤で小2の時に東京に来た。 3、4年の担任のA先生との出会いは重要だった。A先生は美術の先生で、画家でもあった。いつも無心で描く私の絵を褒めてくれ、私より上手い子がいたのに、お前の絵は気持ちが入ってていい、と言ってくれた。ますます絵が好きになった。 こんなこともあった。 写生大会で学校のすぐそばの広い空き地に行き、みんなで絵を描いた。 その日はどんよりした雲が漂い、今にも雨が降り出しそうな天気だった。私は消防署のコンクリートの建物を描いたが、灰色と灰色ばかりが並ぶ絵で、正直おもしろい絵ではなかった。途中から乗り気でなくなり、周囲の緑もどこかくすんだ色に染まり、嫌な絵ができた。 翌日提出だったので、それを丸めてランドセルに挟み、みんなで帰った。 途中で道でふざけて遊んでいたら、丸めた紙がポロッと落ち、そのまま呑川(本当はとても飲めないドブ川)に落ちた。慌てて棒ですくい上げ何とか取り戻せたが、びじょびじょに濡れて絵の具も少し剥げていた。しょうがないので家で乾かし、もう一度絵の具を塗ったが、ますます汚くなって最悪の絵ができた。 次の日、恐る恐る提出したら、 「みぞぶち!前へ来なさい!!」とA先生に言われ、黒板の前に一人座らされた。 そして私の絵だけが貼られた。 (わぁ、怒られる!あんなことをしたからだ!) そう思った瞬間、 「見なさい!この絵だけが本当の絵だ!」とA先生が言った。 「昨日は青空ではないし、空き地も緑ではない。それなのに他の人は楽しそうなきれいな絵ばかり描いた。きちんと写生したのはこの絵だけだ!」 私は狐につままれたような感じで、早くそこから逃げ出したい気持ちで一杯だった。 結局、この絵は目黒区の展覧会に出て優秀作品に選ばれた。横には「この絵のどこが良いか考えましょう」と書かれていたが、私にはさっぱりわからなかった・・・ 中学1、2年の美術のM先生との出会いも重要だった。M先生も画家で、無心で描く私の絵を褒めてくれ、毎回校内の通路に張り出す優秀作品に選んでくれた。 中2の春、馬事公苑へ写生大会に行った。遊んでばかりいて、最後の小1時間で池に映る樹々を水彩でサラッと描いて出した。ほとんどテクニックだけで描いたような絵だった。 みんなは「さすがに上手いな!」と褒めてくれたが、M先生からは、 「これはキミの絵ではない!」と初めて言われた。 そして画面一杯に馬の顔を伸び伸び描いたS君の絵を褒めた。それを見て反省した。 (が、まだ身にしみてなかった) 夏に木の角材を使ってオブジェをつくる課題があった。 その時も遊んで怠け、最後の方で飛行機の羽のようなものを付けて、見た目はカッコイイ、テクニックだけで作った物を出した。するとM先生は 「これはキミの作品ではない!」と再び言った。 私はM先生が何を言おうとしてるのかを直感した。 秋に校内で写生する課題があった。私は紅葉する樹の葉っぱの一枚一枚を無心で描いた。いつのまにか絵の具が凸凹になり、ゴッホの絵のようになった。 それをみてM先生は、 「これはキミの絵だ!」と言った。そして「画家になる気はないか?」と続けた。 私はドギマギして「さあ〜?」とうっちゃったが、内心とても嬉しかった。 高1の美術の教師とは始めは上手くいかなかった。 アグリッパの彫刻を写生した時、もう少しこうした方が良いと言われた。私はそれを無視し、むしろ逆の、キュビズム風にデフォルメしたタッチで描いた。 1学期の成績は10段階で8の評価を受け、初めてフルマークではなかった。 こいつとは合わないなと思い、それからずっとサボった。 2学期の最後にエッチングを1点出さなければならず、その時だけ真剣にやった。 当時の首相の佐藤栄作にチョンマゲを生やし、殿様に見たて、頬杖を付きながら気難しそうに考え込んでる「憂慮」という皮肉を込めた作品を作った。久しぶりに無心で作業し、気がついたら朝になっていた。人生で初めて徹夜をした。 その作品だけで今度は10をもらった。そして「とてもいい」と言われた。和解した。 (余談だが、私が建築に進む羽目になったのは、高2の夏前におこなわれた進路決定の面談の時だ。その直前のテストで間違えて偏差値が高く出た。担任は喜んで、 「将来何になりたい?」と訊いた。 「できれば絵を描いて食っていきたい」と答えると、 「そんな不確実なことでどうする!」と一喝された。 何か言わないと逃げられない状況だったので、咄嗟に 「建築家になる」と出まかせを言った。すると 「じゃ、理科系だな」と言われた。 私は、建築は芸術だからてっきり文科系だとばかり思っていた。 それから私の苦難の道が始まった・・・) 絵が好きになる過程で大切なことを学んだ。 テクニックより気(気持ち)を込めることの方がはるかに大切だ たとえ下手であっても、無心でつくったものは人の心を動かす それはいつしか私の生き方となり、哲学となった。 導いてくれた方々に深く感謝している。 かずま #
by odysseyofiska
| 2014-12-10 19:59
2014年 11月 16日
黄金の11月がやってきた。 私はこの季節が一年で一番好きだ。 肌にやわらかな秋の日差しともうじきやって来る冬のひんやりした冷たさを感じながら、少し薄着をしてブルッとコートの襟を立てながら歩くこの季節が大好きだ。 身体に緊張感がみなぎり、すべてが新鮮に感じられる。 樹々も鮮やかに色づき始め、刻々と変わっていく。 こうしたことは暖房の効いた部屋でぬくぬくと外を見ているだけでは感じられない。 また、外に出ても、真冬のセーターやコートを着ていては感じることはできない。 痩せ我慢をしてでも、ひんやりした世界に身を置くことで人間の感度は何倍もUPする。 そして新たなものが見えて来る。 先日早めに帰った日にTVのスイッチを点けたら、偶然、五嶋みどりの番組をやっていた。 (私はこの「プロフェッショナル」という番組が好きだ。見終わった後はいつも自分の平凡さと努力不足を思い知らされる。特に医者や芸術家の時は、選ばれし人々とのギャップに呆然としながら深く感動する) 五嶋みどりは言わずと知れた日本が世界に誇るヴァイオリニストで、11才の時にニューヨーク・フィルでデビューし、14才の時の「タングルウッドの奇跡」(演奏中に2度弦が切れるアクシデントに見舞われながらも慌てず、3挺を次々に弾きこなして最後まで終えた)は今や伝説化している。 最初は天才少女の成功譚かと思って見ていたが、途中から様相が違った。 実は彼女は若くして音楽にのめり込む生活が続いたため鬱と拒食症になり、一旦音楽から離れざるを得なくなる。そして大学へ入学し一般学生に混じって心理学を学ぶ。これにより復帰後の音はさらに豊かになったと本人は言うが、専門家ではない私の耳にも、初期の綺麗なだけではない音が入り込んで来たように感じられる。 そして彼女は自身の演奏活動の他に大学教授としてプロを育てたり、自身で設立したNPOを通じて一般の素人演奏家にレッスンをおこなったり、開発途上国で演奏したり、積極的に社会とコンタクトを持つようになる。そして知的身体的障害者の音楽教育に乗り出し、日本の養護学校で楽器指導支援をおこなうようになる。 番組の後半はその3つの学校の生徒とサントリーホールでおこなうプレコンサートの練習風景と当日の様子を追ったものだった。 生徒達は真剣そのものだが練習はなかなか上手くいかない。それを彼女は微笑みながら何も言わずにじっと見て聴いている。 「とても素直な音がしていると思います。素直で純粋な音が私には聴こえて来ます。あそこからどこに今度行けるのかなと。あそこからどこへ向かっていくのかなと。」 練習を始めて8回目にやっと演奏に加わる。すると生徒達はそれに導かれて初めて最終パートまで行き着くことができる。その瞬間の喜びと恥じらいの笑顔は格別だ。 「子供達が努力しているのを見ていて、そこから出て来る『音』に対して一人一人みんな違う思いがあると思います。で、私は生徒達がいろいろな意味でいろいろなことを考えて何かを感じる、そういう子供達の姿勢がエネルギーだと思います。一生懸命にしているというエネルギーです」 当日の演奏はとてもよかった。子供達の真剣さと全体の音の微妙なズレがかえって新鮮で、私はオーネット・コールマンのバッハのプレリュードを初めて聴いた時の感動を思い出した。 彼女は別に施しをしたのではなく、子供達の素直で純粋な音の中に原初の音を聴き、自身の音楽の新たな展開とそのエネルギーにしようとしたのだ。素人やプロになる以前の演奏家に教えるのも、初めてプロのクラシックを聴く人達のために演奏するのも同じことだ。 狭いプロの完成された音楽に閉じこもるのではなく、自分をもう一度0の状態に戻すことで真の「音楽とは何か」を探求しようとしたのだ。 もちろん、その答えは簡単ではなく、しかも年と共に変わって行くだろう。 だが、そのにこやかな顔つきと穏やかな語り口から、逆に彼女の強い意思を感じた。 私もいつも「建築とは何か」を考えている。 そして彼女と同様、けして経験豊富なプロだから最上のものができるとは思っていない。 むしろ何も知らないクライアントや学生の言葉にハッとしたことは何度もある。 自分をいつもプリミティブな状態に置いて0から何かを考える、感じるという作業ほど難しいものはない。しかも「つかまえた!」と思った瞬間、それはするりと逃げて、ふたたび戻っては来ない。同じことは二度と起こらず、答えは常に変化していく。 まるでシジフォスの神話のようだ。 だが、だからといって諦めては何にもならない。 大切なことは「建築とは何か」を自分自身に常に問い続けることだ。 その無為な行為がやがて彼を、彼女を、真の建築家にして行く。 私も真の建築家になりたいから、もう一度コートの襟を立てて痩せ我慢をしながらひんやりした世界に身を置くとしよう。 かずま #
by odysseyofiska
| 2014-11-16 18:11
2014年 11月 01日
夏が終わった。 そして秋になった。 一月程前のことだが、Mが老健から特養に移った。(介護老人保健施設から特別養護老人ホームに移った) Fが辿った道を一歩ずつMも辿っている。 大好きで何度も歩いた多摩川の土手の上を歩くことも、もう無いだろう。 ハトに餌をやりながら、それが飛び立つ時の音に驚くことも、もう無いだろう。 西に沈む夕陽を見ながら「あれが富士山だよ」と言うことも、もう無いだろう。 その日は10時前に施設へ行き、退所の準備をした。 Mの様子を見ると元気がない。というか、この世の果てのような顔をして意気消沈している。ベッドを見ると布団カバーやシーツが無い。 (ハハ~ン、漏らしたんだな) こういう時はそれには触れず、復活するまで全然関係ない話をするのが一番だ。だが、清水からやってきた兄の顔を見てもなかなか調子は上向かず、どこにも行きたくないという。 なんとか着替えさせて、1階のロビーまで降ろす。施設でお世話になった方々が皆出て来てくださり、別れを惜しんでくれる。すると、突然、Mは目に涙を浮かべ、何か言おうとするが言葉にならない。 特養に入所する時刻まではまだ時間があるので、久しぶりに世田谷美術館のレストランで3人でランチをすることにした。 明るい席に座ると少し心が和んだのかMの顔に笑みが浮かんで来る。そしてレストランの屋外でおこなわれている人前結婚式の花嫁さんの白いウェディング姿を見つけると、「わぁ、花嫁さんだ!」とはしゃぐ。 食事の後で「入所の時にいろいろ訊かれるから、今から少し練習しよう、お母さん」と言うと、「ハイ!」と元気な声が返って来る。そして名前や生年月日を何度も繰り返す。 こうした一瞬一瞬の感情の動きは生きてる証しだから良いことだが、Mの場合はとりわけ落差が激しい。その兆候は以前からあったが、最近は特に激しい。 懸念していた入所時のトラブルは拍子抜けするくらい無かった。 以前、ショートステイでお世話になった時は、入口で「帰る」とか「私はこんな所には来たくない」とか、散々手を焼かせたのだが・・・ たぶん、老健で3年半ウェイティングしているうちに集団生活にも慣れ、衰えて行く自分を誠実に看てくれる所員の方々にそれなりの感謝や自分なりの自覚を持つようになったのだろう。 予習した質問が出るとハキハキ答え、訊かれてないことにも自分から得意になって話す。 いやはや、絶好調だ。 入所の手続きや説明は1時間半ほどで終わり、周囲の環境にも慣れさせて、さぁ帰ろうとした時、「どこに帰るの?」とMの顔にサッと不安が走る。 「また来るから大丈夫だよ」となだめすかし、その場を後にしたが、本当に大丈夫かしらん?と不安がよぎった。 その後、毎週休みの日には施設に行くが、今回はスムーズで、今までの所、別段トラブルは無い。手をつなぐと何とか歩けるので、行く度に4階へEVで上がり、一周してから3階へ下り、一周してから2階の自分のフロアに戻るのがいつものやり方だ。でないとすぐ運動をサボるので、歩けなくなってしまう。(歩けなくなると内蔵が弱り、誤嚥性肺炎を起こし易くなるのはFの時に経験した) もう少し元気になったら、温泉にでも連れて行こう。 やがて秋は終わる。 そして冬がやって来る。 それまでの間「秋の童話」を一つ一つ残して行きたい。 かずま #
by odysseyofiska
| 2014-11-01 15:51
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