F1の上海グランプリを見に行った。
切っ掛けはデタラメで、昔からの友人でもあるクライアントのMさんと食事中、突然、「上海グランプリを見に行こう」と誘われ、一旦断ったのだが、「決勝は10/1だから大丈夫だ」と言われ、それ以上断る理由がなかったので同意したのだ。
Mさんはチャイニーズ系のフィリピン人で、当然の事ながら自分のルーツである中国を深く愛していて、まだその国を見ていない私にその大いなる変貌と躍進を見せようと、これまで何回も誘ってくれたのだが、いつも最後に何かが起きて実現しなかった。
それがあっけなく実現した。しかもいきなりF1である。
会場のサーキット場は市の中心部から車を飛ばして2時間くらいの、静かな田園の中にある。突如として出現したその姿は、ある意味、反中国的である。上海飛行場や中心部の建物もそうだったが、中国の伝統的な様式や風土の匂いが全くせず、極めて人工的、未来的である。
そこにいる人種も東京の渋谷や原宿にいる人種と全く同じで、違和感がない。特に挑発的なファッションの若い女の子は。
そもそもF1という、極めて反中国的なスポーツ(つまり、わずか1時間半くらいの間に膨大なエネルギーとお金を消費し、その結果は何も残らないという、典型的な資本主義社会のゲーム)がここに存在し、人々がそれに熱狂していること自体、不思議である。
要するにクレイジーなのである。何の思想や伝統の脈絡もなく、論理的かつ合理的な説明もなく、突如として巨大なマネーゲームが出現し、人々がそれに熱狂し、色や形が促成栽培の花のように生まれ、咲き乱れている。
どこか日本のかつてのバブルと似ているが、もっと巨大で勢いがあり、ファナティックで恐ろしい。
だが、新しい文化が生まれる時は往々にしてファナティックで、誰もその幾末はわからないまま突っ走っているだけなのかもしれない。言い換えれば、すべてを生み出し、変えていく母体はクレイジーなハートと脳味噌だと言える。創造的でなくなるということはクレイジーな部分を失うということなのだろう。
現在の上海は、まだ世界中のものを真似ている段階に過ぎない。
これが一定の飽和に達した段階で落ち着くのか、それともさらにヒートアップしてその向こうに何かが生まれるのか・・・
レースはシューマッハの勝利で幕を閉じた。
その後、人込みの消えたサーキット場は元の静けさに戻ったが、私の頭の中ではいつまでもクレイジーな爆音が鳴り続けていた。
かずま