先週から今週にかけて卒業式を迎える大学生の華やいだ姿を街でよく見かけた。
その多くは4月から社会人として自分の新しい道を元気に歩き始めるのだろうが、中には自分の意に染まない選択をした人や、それさえ適わず悶々とした思いで毎日を送っている人もいるかもしれない。
だが、いずれ時が過ぎれば、そうしたことが決して大したことではなかったとわかる日が必ず来るだろう。
若い時には傷つくことが多い。特に他人と自分を比べ、そう思うことが多い。
だが、元々他人と自分は違うのだ。そして同じでないからいいのだ。
だったらそれを認めて、早いうちにオリジナルな自分を始めた方がいい。
そしてワン&オンリーな道を歩んだ方がいい。
私の場合、究極的な目標は「充実した人生を生きる」ということに尽きる。
そのために比較的好きな建築を生業としているが、その生業を維持するために人生が充実したもので無くなるのなら、すぐに建築を辞めるだろう。
要するに手段は何でもいいのだ。
充実した瞬間、瞬間を作り出し、そうした時間で一日を埋め尽くし、そうした一日を毎日続けることで充実した人生へとつながればいいのだ。
では、充実した時間、充実した瞬間とはどういう時なのだろう?と思いを巡らすと、子供の頃、夢中で遊んでいたシーンに最終的には行き着く。
我を忘れ、時を忘れ、何もかも忘れ、無心で、まさに夢の中にいるように、純粋に遊んだ。あれが究極の充実した時間、充実した瞬間だったのではないかと思う。
無心で遊ぶ、夢中で遊ぶことが逆にすべてを包み込む。
勉強や仕事、毎日の生活を一つ一つ思い返してみても、いい時は皆、無心で夢中な遊びの感覚とつながっていた。逆説めくが、それらは本来は遊びの一部分に過ぎなかった、ということがわかってくる。もっと言えば、世界は遊びでできている、ということがわかってくる。そしてそれは確信へと変わって行く。
死ぬ時に、充実した人生を歩んだと心から思え、
それを支えてくれた人達に深く感謝できたなら、
これ以上の幸せはない。
かずま